上板橋の南口銀座からは、南半球でしか見えないマゼラン雲が見える。南口銀座の中ほど、おでん種の店で売られているゆで卵は、見た目よりやや青白くデジカメに写る。スペクトルの青方偏移を見るためにフィルムを装填したいのだが、デジタルカメラの裏蓋を開ける機構がどこに隠れているのかわからない。古書店の廉価本コーナーに座っている釣り堀のおやじは夕焼けを眺めながら、いつものおかしな息継ぎもなしに「マーラーはこの曲がり角でときどき火事に出会う」とつぶやく。
selection: すべての夢
白滝と巨人
警察署の周囲に張り巡らされた有刺鉄線が、ことごとく糸こんにゃくと化し、余った針金は「しらたき」として束ねて結んである。遠く崖線に沿って走る高速道路の上を、捕縛を逃れた巨大な白い人がゆっくり歩いていくのが見える。
断捨離工房
鉄板を貼った作業台、木工旋盤で削りだされる丸柱、壁にかかった鉄製の道具、漆塗りのための刷毛など、階下にある木工作業場の夥しい物に圧倒される。Rはもう工房の職人たちと仲良くなって、木の杖に穴をあける相談をはじめている。
引っ越しを前にしてほとんど物がなくなった二階に来ると、最近塗られた分厚い塗装のせいでロッカーの扉が開かない。このまま開かなくても別段困ることもないな、と思う。
ハワイの木村拓哉
木村拓哉の左右の眉がつながってココナツの葉に見える。そのうえ鼻筋が木の幹に見えるので、
「それじゃまるでハワイだな」と言うと、
「ちげぇーよ」と怒っている。
グンゼビル
お堀端のこのビルは建物全体が回転しているので、窓からの風景がゆっくりと一方向に流れている。終電も過ぎ、曖昧になってしまった待ち合わせを諦めようか迷っていると、グンゼの広告撮影のため集められた少年少女たちが白いメリヤス下着に身を包み、階段の手すりあたりでたむろしはじめる。勃起がパンツを押し上げているのを見つけられてしまった少年を、少女たちは面白がって取り囲み、一人の少女が自分のパンツを下ろして見せる。
壁面がまるまる電子書籍になっている隣のビルに、ちょうど窓の方角が合うのはこれで三回目だ。本が巡ってくるまでの間に自動でめくられた数ページぶん、物語が抜け落ちてしまう。もう帰ろう、そう決心して一階の出口に降りてくると、回転する鉄製ステップの意外な速さに怖気づいて、なかなか外に出ることができない。
絵宿帳
海辺の高層ホテルに宿泊している。九階の部屋から一階のフロントまで降りてくると、恰幅のよい女性オーナーから宿帳を書くように言われる。今日までの分と明日以降出発予定日までの分を絵日記で記さなければならない。今日の夕方の予定は内緒なのでうやむやにしたいのだが、うやむやを描くための滲む画材が手元にない。絵で嘘をつくのは言葉で嘘をつくよりむずかしいから、とオーナーが言う。
瓦落多の馬場
自動改札を詰まらせてしまった子連れの女の傍らに、改札装置の内部に詰まった瓦落多を駅員が次々と取り出しては積んでいくので、見る見るうちに背丈より高い山になってしまう。申し訳なさげなその女と、僕は目を合わせないように隣の改札を通過し、エスカレーターで高架のホームへ向かった。しかしあの百円玉や針金細工や半濁音や冠詞の混じった瓦落多は、写真に撮っておくべきだった。
高田馬場のホームはミルク色に沈殿した霞に浮いていて、毎日の利用者でありながら異様な標高に足がすくむ。ミルク色に沈殿した雲海から突き出す建物の影はそれぞれでたらめに傾斜しているので、垂直に立っていることができない。タイル貼りのベンチの背に手をついて恐る恐る移動していると、改札の女が軽やかに行く手をよぎり、彼女のふくらはぎに躓いてしまう。
仁王炎上
文京区の神社仏閣を巡るバスツアーから、一人だけはぐれてしまった。文京区は山麓のゆるい斜面にあり、立体イラストマップにはたくさんの寺や神社が重なり合うように描かれている。いちばん手前に描かれた麓の大きな寺で待っていれば、必ずまたツアーに合流できるはずだ。
境内の参拝者に混じって、洋服を着た猿が潜んでいる。布で顔を覆っても、異様に鮮やかな顔色から猿だということはすぐにわかる。狡猾な猿は人の命を狙っているので、僕は猿を静かに威嚇しながら本堂にたどり着く。説明書通りの回数だけ拍手を打ち、干し草で作られた線香に火を点ける。
山門の柱の中に、草で作られた仁王が立っている。僧が供養の念仏を唱えはじめると、仁王の草は煙を上げて燃え始めた。乾いた草は瞬く間に閃光電球のようなまばゆい光球となって燃え尽き、仁王の頭部は草の支えを失い、鉄の骨格と化してごろんと地面に転がり落ちた。
忌まわしいことだ、お祓いをせねば、と、合流したツアーの友人たちと相談するが、僧は携帯電話を肩にはさんで宮司と話している最中で、それどころではない。
参道の階段を下りながら、寺門孝之、うるま、中村理恵子と僕の四人で、リアルとはなんだろうという話になる。寺門さんは、自分にとってリアリティとは、毎年2月11日にニューヨークに行き愛を確かめることだと言う。3.11でも9.11でもなく2.11だからリアルなのだ、とうるまが言う。
木の魂を抜く
アルバイトに来た会社の長いソファで、社員の机にあったトランジスタ技術を読みながら、何を待たされているのかわからないし、担当の名前すら知らない。休憩に戻った作業服の社員たちが、「担当!」と叫んでくれたおかげで、革ジャンを着た長身の担当が、お約束のおどけた仕草で登場し、会社の奥へ導いてくれる。
製品陳列棚の奥には木工部門があり、資材置き場があり、駐車場があり、鉄門の裏口があり、山につながる小道がある。山を下ってきた作業員たちは、うっすら緑の土を被り、魂を亡くして表情がない。
僕は山を登りはじめたものの、なにか馴染めない。仕事をすると決めたわけではない、と自分に言い聞かせながらも、気づくとかなりの標高まで登ってしまった。「やすこが来た」という無線連絡が入り、谷あいの道にそれらしき人影を見たので、彼女がこの半端な状況を打開してくれるかもしれない、と思う。
石灯籠の断片に腰を下ろし、森の下草に紛れていると、前触れもなく儀式は始まった。向かいの山の数百メートルもある杉の巨木は、根本に入った切り込みが限界に達し、傾きはじめた。先端がこちらの山にかかると、木は大きくたわみ、その反動で向こうの山側に帰っていく。それらはことごとく予想をはるかに超えるスローモーションで、静止画を見ているようだ。しかし木がもう一度ゆっくり倒れこんでくるのがまさに自分の方角だと気づいたときには、逃げきれそうにないほど加速している。
伐り倒される木の内部から円筒形の「木の魂」を抜き出す男が、巨木の先端に跨っているのが見える。木の魂を括った縄のもう一端を自分自身に括り付け、木が山にぶつかる衝撃を使って魂を離脱させようというのだ。カプセル状の魂と紐づけられた男は、ハンマー投の着地のように地面を削りながら減速し、男の体もあちこちの岩に弾かれたが、彼は熟練した正社員なので死ぬことはない。
記憶捏造
帰り際に男が硬く手を握りながら、潤った目に「またしよう」という意味をこめている。いや僕には心当たりがない。この男は間違いなく頭が変なのだが、しかし自分の記憶が変である可能性も却下しきれない。
大衆食堂の升席に設置された木の湯船につかり、閉店時間間近で熱い湯が止まってしまうのに、僕はすっかり水でうめてしまい、後ろめたい。このぬるい湯に今から入ろうとしている男がいて、彼はこのあと食堂のホワイトボードを使って捏造される記憶に関するプレゼンをするのだと言う。
右肩の友人
白い猛禽類がいつも右肩にとまっている。横顔は鷹だが正面はフクロウで、とても大人しい。食卓の小さい花火が火花を散らし始めたので、顔を覗き見ると、彼も恐れずに火を見ている。ときおり彼が飛び立ち、背中に舞い降りてくると、僕の肩凝りも右の肩から右の背中に移動する。
鬼子母神簡易宿泊所
交差点の四つの角のうちの三つに、僕らはそれぞれ腰かけて、音楽と自己組織化について話をしている。お互いの表情は遠くて見えないのに、小さい声はすぐそばに聞こえる。音の反射が音の虚像を作るんだよ、と虚像のikegさんが言う。
鳥居が並ぶ鬼子母神脇の道端は、区画ごとに布団が敷かれた宿泊所になっていて、時計はまだ九時で帰れないこともないのだが、今夜はここに泊まることにする。
道端の布団でくつろぎながら、感情の幾何学について熱弁するkazetoに、君の研究は非常に重要だとエールを送ると、彼はさっと手をあげて帰っていった。鬼子母神の赤い木組みの迷路に紛れ込み、待ち構えていた内田洋平らしき僧から梅酢と出汁で煮込んだ山芋をいただく。
地下印刷工場
明日壊される家の荷物を、今日のうちに引き上げることになっている。不要なものはここに残しておけば、家とともにすっかり業者が消し去ってくれる。確認のために各階を回ると、勇樹の黒い鞄など、捨てたのか忘れたのかわからない物がまだいくつも残っている。あいつのモノに対する執着は、いつもあいまいだ。さゆちゃんに頼んで、鞄の中の黒い手帳の写真を撮り、廃棄していいか本人に確認するツイートを投稿してもらう。
地下室の奥の扉を開くと、四階分の高さが吹き抜けた広大な部屋が現れ、床に染みたインクや油の形状からここが印刷工場跡であることがわかる。なぜ今日まで、この連絡路に気づかなかったのか。
このことは工場関係者にも伝えておいたほうがいいだろう。なにしろ扉の向こうの空間は、明日すっかり自動消去されてしまうのだから。
爆走レース
財布をいつも身に着けていないからなくすのだ、と木村拓哉がなじるので、それならお前が財布になれと言うと、彼は憤慨して運転席から去ってしまう。彼には僕の落胆は理解できない。やむなく僕は隣を走る車の運転を真似てボタン操作をすると、車は渋滞する車列の屋根の上を走りだし、大暴走の果てに火花をあげて大破する。
車を処分するときには右翼を使えという教訓があるので、イタリアマフィアのいるガラス張りのブティックの前に車は捨て置くことにする。彼の手下がダイナマイトを車の下に仕込むのを見とどけ、僕は安堵して土手を登り、自転車レースに紛れ込むことにした。門にいるエントリー担当の女が、靴ひもの穴の数が違反しているのでこのままではレースに出られないと言う。どうにかできると思いますが、と言いかけたところで、靴の鳩目がぼろぼろと彼女の病気の皮膚にこぼれ、ブルドッグのように小さくなった彼女は、赤黒く襞の寄った裸の身体を掻きはじめた。
画素格子
絵を拡大していくと画素の中に絵がありその画素の中にも絵がありさらにその中にも絵がある映像を投影して、世界はこのように無限の細部があるのになんで単層のつまらない絵など描くのか、と口走ってしまう。講堂を歩き回りながら、こんなふうに煽るつもりはなかった、連画について話しているのに、このままでは収拾の見込みがない、と思い始めたところで高野明彦さんがマイクを取り、持参した試料にガイガーカウンターらしき装置をあてたので、僕はこの窮地を切り抜けることができた。装置はあちこち光りはじめるが、しかし装置がα線源に反応しないのを僕は知っている。
講堂の灯りが揺れはじめた。次第に振幅が大きくなる。僕は外に出て財布やノートを置いてきた山岳地帯のガレージをめざして走った。地すべりも始まり、ここで自分の命を優先するか荷物を優先するか、迷いながらも崖をくりぬいたガレージに来てしまう。崩落した画素の格子に閉じ込められた男がいるのを見て、荷物はもうあきらめるしかないことを悟る。