rhizome: 写真

富山カンブリアン撮影

旅先の富山で、流れる雲の隙間から陽がこぼれる奇跡的な気象条件に誘われ、バスの仲間から離れて町をさまようと、剥げてめくれた塗装が躍る質屋や、バレーコートにだけ陽のあたる校庭の人影など、数えきれないほど不思議な写真を撮る夢を見ている。

(2017年5月15日)

VR古書店主

江古田に向かう坂の途中で、近所のハヤカワさんから首長のガラスカプセルに入ったドリンクをもらう。道端に業界人を集めて、ガラスドリンクのパーティーをしている。少し参加したが、話がかみあわないので引き上げる。いつもの木の椅子に座って坂をいっきに石神井川まで滑り降り、川辺を歩くと古本屋がある。黒い小顔の店主は、本の集め方がおかしい。同じ本が何冊もある。ある年の月刊イラストレーションばかり数竿の本棚を占め、入りきらない分は床から積み上げてある。いちめんの色あせたオレンジ色の背表紙。店内の写真を撮っていいか店主に尋ねると、店主自身がポーズをとり、娘や孫まで呼んできてひとりづつ店番に座らせる。僕はスマホをヘッドマウントディスプレイに嵌めて撮っているので、VRの向こうにリアルな店番がいるのかどうかわからない。

(2016年10月17日)

重ね層遊具

阿武隈川を船で下っている。対岸の層模様は昨日の豪雨がつけた水位の痕跡。層が半透明でその向こうをRが舟の速度で走っている。
川下りの折り返し地点に、ドーナツ状の籠を重ねた遊具がある。円筒は上の層ほど速く回っている。層ごとに遠心力で張り付いた人がいる。写真をとると、上の層ほどぶれて透明に見える。

(2016年7月5日)

屑鉄回収AR

成城学園の大戸屋を探して、森の中で二人の女子大生に尋ねるが、彼女たちの言う通り歩いてもたどりつけない。駅前の路地に見つけた廃屋を画角いっぱい撮影しようと後ずさりすると、屑鉄回収業者の敷地に入ってしまう。地面に敷いた鉄板が油で滑る。業者のおじさんに写真を撮ってもよいかたずねると「いくらでも撮りな、写らないから」と言う。カメラの液晶を覗くと、確かにおじさんの姿がない。「そのかわり」と言っておじさんが指を鳴らすと、ファインダーの中のあちこちに化け物が現われるが、被写体のほうに実体はなにもない。

(2015年10月15日)

大正時代の恋文

部屋にあった持ち物が、公園に晒されている。見慣れた書架に値札がついている。なにかの手順のような抽象的な概念も、滑らかな黄色いプラスチックの塊で売られている。所有物を売るときにいつも陥るあの逆説的な思い、この机が一万円なら自分で買うかもしれない、というあの後悔が湧いてくる。
ポジフィルムを透かすライトボックスに目をつけた客を、それはもう使いみちがないから、と追い払う。古い木箱を開けて整理を始めた野知さんは、書類に挟まって死んだ虫とそれに群がる赤い蟻を払いながら、大正時代の女が書いた熱烈な恋文の束を読みふけっている。それぞれの返信がどうしても読みたいが、返信はこの女の骨董市まで行かないと読めない、と野知さんが言う。

(2015年3月31日)

擬似記憶

河川敷に沿って建つ建物を、ひとつひとつ覗き込みながら上流に向かって歩いている。どれもみな僕の記憶からここに移築された建物なので、忘れているのに見慣れたものばかりだ。廊下に積まれた古書は自分の蔵書の記憶だが、aoikikuさんの撮った写真の記憶だったかもしれない。
ガラス越しに見えるこのフロアでは、かつて展覧会をした。空白の床と壁に展示した絵のイメージを配置するが、こう並べてもああ並べてもどちらも正しく思えるのは、これが回想のふりをしている擬似的な記憶だからだ。

(2012年11月26日)

瓦落多の馬場

自動改札を詰まらせてしまった子連れの女の傍らに、改札装置の内部に詰まった瓦落多を駅員が次々と取り出しては積んでいくので、見る見るうちに背丈より高い山になってしまう。申し訳なさげなその女と、僕は目を合わせないように隣の改札を通過し、エスカレーターで高架のホームへ向かった。しかしあの百円玉や針金細工や半濁音や冠詞の混じった瓦落多は、写真に撮っておくべきだった。
高田馬場のホームはミルク色に沈殿した霞に浮いていて、毎日の利用者でありながら異様な標高に足がすくむ。ミルク色に沈殿した雲海から突き出す建物の影はそれぞれでたらめに傾斜しているので、垂直に立っていることができない。タイル貼りのベンチの背に手をついて恐る恐る移動していると、改札の女が軽やかに行く手をよぎり、彼女のふくらはぎに躓いてしまう。

(2012年9月23日)

地下印刷工場

明日壊される家の荷物を、今日のうちに引き上げることになっている。不要なものはここに残しておけば、家とともにすっかり業者が消し去ってくれる。確認のために各階を回ると、勇樹の黒い鞄など、捨てたのか忘れたのかわからない物がまだいくつも残っている。あいつのモノに対する執着は、いつもあいまいだ。さゆちゃんに頼んで、鞄の中の黒い手帳の写真を撮り、廃棄していいか本人に確認するツイートを投稿してもらう。
地下室の奥の扉を開くと、四階分の高さが吹き抜けた広大な部屋が現れ、床に染みたインクや油の形状からここが印刷工場跡であることがわかる。なぜ今日まで、この連絡路に気づかなかったのか。
このことは工場関係者にも伝えておいたほうがいいだろう。なにしろ扉の向こうの空間は、明日すっかり自動消去されてしまうのだから。

(2012年8月22日)

有機物ネットワーク

東京の地下鉄網が東の果てで途絶える駅を出ると、景色があちこち錆びている。使っていない工場の壁に、操車場の電車の窓にあたった西陽が、ゆがんだ四角い反射を落としている。この奇妙な一瞬を写真に撮ろうとRにカメラを借りるが、電池あるいはメモリに問題があるため画像が保存できません、と表示される。
空に突き出す何本もの塔の中、町はずれにあるひときわ巨大な煙突を目指して歩いていく。しかし、どんな光景に出合っても写真が撮れない。せっかくだからカメラを持って次に来るときのために歩ききらないでおこうよ、と言うのを聞いていないのか彼女はどんどん地下通路に潜り、突き出した土管から顔を出すと、広大な更地をブルドーザーが這っている。
巨大な煙突は、地域の有機物を人間の死体も含めてすべて空中に返し、世界中の空気から有機物を回収するネットワークで、そのための工事をしているのだと言う。鉄パイプ製の車に乗ると、地域の王子らしき裸の子供が、煙突の熱は使い放題だけれど絞れない=制御できない、と言う。しかし余った熱は、車のフレームであるパイプにつなぐと車全体に行き渡るのだ、と言う。

(2012年7月26日)

機械仕掛けの写真展

高速道路沿いに建つ高い換気塔の内部に入り、吹き抜けの最上階まで登る螺旋階段に展示された、おそらく今まで誰一人鑑賞したことのない写真をひとつひとつ見ている。作品を収集した日焼けした服部桂さんに名刺を差し出そうとするが、財布の中から見つかる紙片はどれも名刺のようで名刺ではない。服部さんはすべて理解しているからその必要はないと言うが、彼の浮かべる表情から、彼が実は理解を模倣した機械であることがわかる。額の中のプリントに焼かれた宙を落ちる人間の像は、コントラストや彩度が画像処理ソフトのように刻々変化する。この写真も機械の一部であることを僕は見抜いている。

(2010年11月28日)

廃屋火事

地面を這うように自生した金木犀の草には、橙色をした拳大の巨大な花がびっちりついている。薔薇の花を育てている小学生たちや、金木犀の写真を撮っている青年など、路地裏の人々がゆっくり時間を過ごすなか、観光客のように歩いている僕とRは異質なよそ者だ。しかもRが薔薇の花を一輪手折ってしまうので、僕は小学生たちの視線が気が気でない。
広場の縁にある二階建ての廃屋から火が出ている。上手に焼けてしまえば解体する費用が浮くので、持ち主にとっては好都合なのだろうと思いながら眺めていると、二階部分に溜まった大量の水がいっきに溢れ出して火を消してしまう。二階の窓から覗いている人形のなまめかしい首を撮りに行こうとRが言う。火事があった部屋とは思えないまっさらな畳の部屋に寝転びながら写真を撮っていると、僕のカメラはメカ部分が壊れてしまう。Rが自分のデジタルカメラから不要のカットを一枚取り出して捨てると、ポジフィルムには人形の全身が写っている。

(2006年10月6日)

下着選び

なにかの企画で下着一枚の写真を撮られることになり、自分にふさわしい一番いかした選択をしなくては、という気持とは無関係に真っ赤なトランクスなどを選んでいる。自分らしくないことが好きな自分は自分らしいだろうか、という思索をめぐらせながら、手袋に紐をつけたような毛糸のペニスキャップを手が勝手につかんでいる。

(2005年5月23日)

架空階段

夜の干潟に佐々木が繰り出していることをラジオで知った。彼は、おこぜや小さい蟹などを獲りながら、どうせなら夜が明けるまで獲り続けようと思っている。その思考内容は、薄明の電波に乗って世界に筒抜けになっている。
僕は偶然を装って、どんより鈍色の朝の浜で彼に合流した。毛の生えた小さい蟹と引き換えに野菜をくれるおばさんは、浜には長い時間いるけれど、野菜を採るのに忙しくて蟹まで手がまわらないものだからと、なぜかしきりに弁解する。
砂浜の行く手に竜巻が三本、色違いの尻尾をいまにも地上に届かせようとしている。伏せたボートの中で写真を撮ろうと待ちかまえている連中がいる。無知ほど恐ろしいものはない。僕は竜巻映画を見ているので、巻き込まれたら命がないことをよく知っている。

気まぐれな竜巻の動きを注意深く見定めながら、階段や吊り橋や稜線を伝って登山口にたどり着く。竜巻を逃れて山に登るのは、これが初めてではない。いやそれは、かつて女と付き合いを深めていった過程と比喩的に相似なだけかもしれない。
標高千メートルを越えるあたりで、ある説明を思いつく。仮に一辺が1メートルの立方体の石を、画素のように階段状にずらして並べると、千画素目の石が標高千メートルである、と。すると比喩はそのまま実景になり、標高ゼロメートルからはるか上空千個目の石に、僕は震えながらへばりついている。

(2004年3月16日)

瓦礫の音楽

「音の風景を楽しむ旅」のパンフには、人の背丈ほどの低木に、ぎっしりとたかったヒグラシゼミの写真。低木の葉脈も、蝉の羽も、レースの下着のように黒く透けている。パンフを持ってきた泉は行きたい様子だが、僕は乗り気でない。こんなおしきせの観光地に行くより、壊滅した自分の家の周囲のほうがよほど珍しい音風景だから。
瓦礫の中からコイル状の円盤を見つける。青い鉄でできたコイルの一端を持ってヨーヨーのように上下運動すると、円盤はほどけたり絡まったりしながらシャーンと鳴る。崩れた建物の表面にぶつけると、コイルは彩度の高い虹色の音を放つ。このあたりの人々は夕刻になると、それぞれ見つけた楽器を手にして、錆びた瓦礫の町を鳴らしながら歩く。

(2001年9月25日)

Interwallマシン

男が本屋の紙袋にかさこそと軽い音のする何かを入れて差し出し、ここはひとつ泣いてもらいたい、と回りくどい言い回しをする。袋をいくらかで買ってほしい様子。中身はどうせ本の付録にありがちな二つ折りの段ボールだろうが、そんなこと言わずにお客さん、これを買ってくれたらもれなく差し上げたいものがある、と言って取り出した掌に収まる円盤型の電子機器はフィリップス製で、表には小さいレンズ、裏には各国語の説明書き。そこには「陣地」やら「撮影」やらの日本語が見える。これはおそらく小さいInterwallマシンなのだろう。いつのまにか技術を出し抜かれて焦る気持を抑えながら、財布から小額紙幣をかき集めて三万円を作るのに苦労する。

(2001年7月8日その2)