rhizome: 文字

藻類標本小屋

ぜひ見せたいものがある、と黒人の庭師に案内されたのは広い芝生の隅にある黒く塗られた小屋だった。持っていたノートを芝生に置き、上下に開くガラス窓を開けるのに手を貸すと、小屋の中にはさらにもうひとつ小屋がある。中の小屋から屋根を外すと、それは木の水槽だった。なみなみと張られた水はなぜか絶えず流れ、世界各地から集められた水藻が糸見本のようにたなびいている。集まってきた女子高校生たちが「わあ綺麗」と声をあげるが、暗く絡まり合う藻は美しいというより恐ろしい。
そろそろ講義が始まる時間なので、と言ってその場を離れるとノートがない。高校生のひとりが遺失物として届けたと言う。彼女に案内されて教務課に出向くと、薄い和紙をカットして作ったシールを受領証明としてノートに貼らなくてはならないと言う。安齋というアウトラインフォントの複雑な不要部分を剥がしながら、申し訳ないけれど授業が始まるからと、撚れた齋の字を無理やり手で押さえつけた。

(2013年8月23日)

「か」の星座

駅の北口広場を飲み込むほどの湖に、船の丸窓と思しき部品が浮遊している。汚れたガラスにひらがなの「か」の文字が書かれているが、僕はそれを日本語の「か」として読むことを禁止されている。日本語を知らない異国人が「か」を形として見るように「か」を見なくてはならない。丸窓は浮き沈みしながら瓦礫とともに漂い、「か」は人の体になり、「か」はまた動物の顔にもなるが、気を緩めるとふとひらがなの「か」に落ちてしまう。

(2013年5月23日)

数珠手紙

彼女は朝方ばたばたと不意に帰ってきて、旅先で書いた手紙を差し出した。それは重くて大きな枠に嵌った手紙で、横に渡された何本もの凧糸に、さまざまなものが単語として数珠つなぎに層をなしている。手鞠状の茶葉、乾燥したキノコ、図書館のICカード、ニスで固められたゲーテの引用などなど。マツコデラックスの引用部分は、大きい松茸のカサが前後の行に被っていて、前後それぞれの行でも意味をなしている。これはすばらしい文学的技巧だ。しかしレトリックのすばらしさは理解できるのに、これが決別の手紙なのか仲直りの手紙なのか、それさえ読み取ることができない。まずはどこかにこれを保管して、時間が解読してくれるのを待つことにしよう。

(2013年3月15日)

瓦落多の馬場

自動改札を詰まらせてしまった子連れの女の傍らに、改札装置の内部に詰まった瓦落多を駅員が次々と取り出しては積んでいくので、見る見るうちに背丈より高い山になってしまう。申し訳なさげなその女と、僕は目を合わせないように隣の改札を通過し、エスカレーターで高架のホームへ向かった。しかしあの百円玉や針金細工や半濁音や冠詞の混じった瓦落多は、写真に撮っておくべきだった。
高田馬場のホームはミルク色に沈殿した霞に浮いていて、毎日の利用者でありながら異様な標高に足がすくむ。ミルク色に沈殿した雲海から突き出す建物の影はそれぞれでたらめに傾斜しているので、垂直に立っていることができない。タイル貼りのベンチの背に手をついて恐る恐る移動していると、改札の女が軽やかに行く手をよぎり、彼女のふくらはぎに躓いてしまう。

(2012年9月23日)

飛ぶガラス管の部屋

臍から性器に向かう細い道がある。その道が枝分かれする腹部を撫でながら、僕と女は進化樹の撹乱について、腹の上の図をたよりに議論している。
昨日は三角フラスコのような白くて小さいブラウン管が飛んでいた。なぜ無生物が飛翔するのだろう。今日は、カプセル錠剤ほどの小さいものが、部屋の中を飛び回っている。昆虫をつかまえる要領で掌に捉えると、それは乳白色の細長い豆電球で、簡単に割れ散ってしまう。
女は短すぎるスカートから裸の尻をむき出しにして、温泉のある建物に向かって歩いていく。背後から見ている僕には、尻の間から覗く一筋の線と、際どい肌の余白に彫られたfig.という文字が見える。たまたま玄関に居合わせた男が勃起を隠そうとするので、彼女の前の線も見えていることがわかる。ちょっとスカートを下にずらしたほうがいい、と温泉に消えていく彼女の背中に向かって何度も声を投げかけるが、伝わらない。

(2008年11月20日)

ミルク色の死者

斜面にめり込んだ家々の屋根より、坂道のほうが高いところにあるので、道から注意深く足を伸ばして天窓に入ることができる。天窓から壁を伝って部屋まで降りる途中で、いままでいっしょにいたnanayoが居なくなっていることに気づく。
どこではぐれたのかまったく思い出せない。僕は彼女が死んでしまったことを感じ取っていて、せめて彼女が部屋のどこに残っているか考えはじめる。
銀色のスプレー缶の噴出口と、点火したガスバーナーの噴出口を向かい合わせると、スプレー缶の先は次第にオレンジ色に光り始める。炎が尽きると、印刷された取扱説明の文字の上に、濃いミルク色の物質がわずかに残る。その物質を指で掬い取り舐めてみるとnanayoの味がする。彼女はやはりここに居て、缶の中にとどまっていてくれた。

(2007年10月3日)

カラスを掴む

目の高さまで書類が堆積している見通しの悪い部屋で、カラスを捕えようとしている。書類を丸めてはカラスの上に投げるので、カラスはなかなか飛び立てない。いよいよ部屋の隅まで追い詰めると、うかつにもわずかに開いた扉の隙間から、次の部屋に逃げ込んでしまう。そこは一変して整然と机の並んだ病院の薬局で、カラスはもう一羽と合流して二羽になっている。
一羽は、白い羽にさまざまなブルー系の色が浮かび上がっている。もう一羽はオレンジ系の色に彩られている。カラスに異変が起きたのではなく、追いかけてきた僕の目の異変であるのに間違いないのは、彼らの映像それぞれにひらがな三文字の名前がオーバレイされていることでわかる。立て続けにその名を呼ぶと、僕は左手に一羽、右手に一羽、それぞれの足を握り、吹き抜けの広い空間を自在に飛び回ることができた。

(2007年4月14日)

輪読会の犬

土の露出したグラウンドで、マグカップに書かれた文庫本を輪読するゼミに出席している。青土社から出ているこの陶製の本は、注釈の小さい文字が円筒の表面にびっちり書かれている。輪読に参加している華奢な体の女が、小型犬に頭から飲まれてしまう。胸まで引き込まれた身体をやっとのことで引きずり出すと、苦しそうな女は透明な粘液にくるまれていて、このままでは窒息してしまうだろう。服をはだけた女の胸は子供のようで、やや膨らんだ乳首をぬぐうと、掌にあばら骨を感じる。

(2006年2月23日)

HTML

自分の講演が始まろうとしているのに、何も準備がない。しかし、僕は他のことに気をとられている。今演台で話をしている有馬氏が手元のコンピュータから僕のホームページをアクセスして、聴衆の凝視する大画面に出そうとしている。僕はその前に自分のページにアクセスして、「有馬め!」というでかい文字を挿入しようと思い付いてしまったのだ。画面いっぱいに文字を出すにはhtmlをどう書くべきか考えているうちに、彼の話はどんどん先に進むし、自分の番もまわってきそうだし、焦る。

(1996年11月27日)

レンズ屋

日が暮れかかっている。僕は、鍵を学校に返して学校をやめようかと考えながら歩いている。坂をやや下りかけた広い道に、中州のように残された幅三十センチにも満たない木造の建物。そこはレンズ屋で、覗いてみるとまぶしい裸電球の灯りの中、おじさんが作業をしている。ガラスの戸が標本箱の蓋のようで、左からガラスの原石、それを削ったもの、虹色にひび割れたものなど、大小さまざまなレンズの過程がぎっちり詰まっている。セピア色がかった小さいレンズには、なにか細かい文字が彫りこんである。車がかすったらひとたまりもないじゃないか。そう思いながら、建物と暮れていく空を見ている。

(1996年2月24日その2)

代筆女

いよいよ更衣室に入ると、風呂場のように「男」「女」と書いてある。木の床が黒光りしている。誰もいない。
着替えたあとで、小便をしようと立ち寄ったトイレの傍で、真面目そうな女が宛て名書きの代筆をやっている。文字に曲線がない。機械のように直線を組み合わせて文字を書いている。
「いつかお願いするかもしれない」と言うと彼女は、
「文字の中心がずれないように薄く鉛筆で線を書いてしまいますけど、いいですか?」
僕は一瞬迷いながら、
「今度是非お願いする」と言う。

(1996年1月8日その2)