rhizome: 画素

身体空間ペイントシステム

久しぶりに作っているペイントシステムは、画素が立方体で、身長より高い。画素の段差の谷間を歩くと、そこここで画素が自律的に反応し、形が生まれる。沢を登り、選択したツールを使って切り立った画素の崖を削り始める。1画素を加工するのに半日はかかるな、と思う。

(2016年6月15日)

画素格子

絵を拡大していくと画素の中に絵がありその画素の中にも絵がありさらにその中にも絵がある映像を投影して、世界はこのように無限の細部があるのになんで単層のつまらない絵など描くのか、と口走ってしまう。講堂を歩き回りながら、こんなふうに煽るつもりはなかった、連画について話しているのに、このままでは収拾の見込みがない、と思い始めたところで高野明彦さんがマイクを取り、持参した試料にガイガーカウンターらしき装置をあてたので、僕はこの窮地を切り抜けることができた。装置はあちこち光りはじめるが、しかし装置がα線源に反応しないのを僕は知っている。

講堂の灯りが揺れはじめた。次第に振幅が大きくなる。僕は外に出て財布やノートを置いてきた山岳地帯のガレージをめざして走った。地すべりも始まり、ここで自分の命を優先するか荷物を優先するか、迷いながらも崖をくりぬいたガレージに来てしまう。崩落した画素の格子に閉じ込められた男がいるのを見て、荷物はもうあきらめるしかないことを悟る。

(2012年8月20日その2)

架空階段

夜の干潟に佐々木が繰り出していることをラジオで知った。彼は、おこぜや小さい蟹などを獲りながら、どうせなら夜が明けるまで獲り続けようと思っている。その思考内容は、薄明の電波に乗って世界に筒抜けになっている。
僕は偶然を装って、どんより鈍色の朝の浜で彼に合流した。毛の生えた小さい蟹と引き換えに野菜をくれるおばさんは、浜には長い時間いるけれど、野菜を採るのに忙しくて蟹まで手がまわらないものだからと、なぜかしきりに弁解する。
砂浜の行く手に竜巻が三本、色違いの尻尾をいまにも地上に届かせようとしている。伏せたボートの中で写真を撮ろうと待ちかまえている連中がいる。無知ほど恐ろしいものはない。僕は竜巻映画を見ているので、巻き込まれたら命がないことをよく知っている。

気まぐれな竜巻の動きを注意深く見定めながら、階段や吊り橋や稜線を伝って登山口にたどり着く。竜巻を逃れて山に登るのは、これが初めてではない。いやそれは、かつて女と付き合いを深めていった過程と比喩的に相似なだけかもしれない。
標高千メートルを越えるあたりで、ある説明を思いつく。仮に一辺が1メートルの立方体の石を、画素のように階段状にずらして並べると、千画素目の石が標高千メートルである、と。すると比喩はそのまま実景になり、標高ゼロメートルからはるか上空千個目の石に、僕は震えながらへばりついている。

(2004年3月16日)

黒板セルオートマトン

数学のテキストを抱えて、教師である僕が教室に入ると、生徒たちはすでに着席して黒板を凝視している。そこには人が書いたとは思えないような緻密かつ乱雑な模様が敷き詰められている。いくつかの部分はアニメのように動いていて、いま羽を広げた鳥のようなものが、右下の方から左上に向かって上昇してきて、なにかにぶつかって砕け散った。
これは、チョークの粉が纏まったり分離したりすることによって起こる、一種のセルオートマトンだ、と説明をしながら、今日の授業をこの黒板を消して始めるかどうか迷っている。

(1996年10月21日)