rhizome: 山岳地帯

ニュー狭山湖

赤羽線のガード下をコンクリートで固めて、防護服の男たちが白い塗装を猛烈に噴霧している。地下に抜ける鉄の蓋は、塗装が厚くなれば開かなくなってしまうだろう。この穴から地下の人たちに食事を投げ込まなくてはならない。貸本屋の女主人に、ビニールコートの背表紙に鉛筆の筆跡が裏移りしている、などとやかく言われ憤慨する。これを下敷きにした覚えはない。そう思いつつ、灯りの反射で照らし出した文字跡は、確かに自分が地下に宛てた手紙の一部だ。

赤羽駅のひとつ手前は山岳鉄道で、急な勾配を登るとニュー狭山湖が見える。万里の長城のような道の欄干から西日に光る湖面を眺めていると、勇樹に中台じいちゃんが死んだと伝えられる。だいぶ前から覚悟はしていたが、不意をつかれて涙が込み上げる。しかし、中台じいちゃんは30年前に死んだのではなかったか。

(2014年10月18日)

軽気球実験

一人乗り気球を使って、子供たちを遠足に連れて行く準備をしている。頭上にある直径1mほどの気球は、ぎりぎり地面から足が離れない浮力に調整されていて、軽く地面を蹴るだけで数メートルジャンプできる。海辺の宿から山の麓を経て山岳地帯まで、軽々と登ることができる。高い崖から飛び降りても、ふわりと着地する。
実験段階のこの乗り物を、いきなり子供たちに試すことになる。彼らは、気球を調整する手綱を手に結ぶことができるだろうか。綱を太ももにかける輪は、ステンレスワイヤをかしめて作ったほうが安全ではないか。崖に到着する前に日が暮れないように、時間を前倒しにしたほうがよくないか。
などなど、いくつも課題を書きだしている僕を見かねて、見学にきた母と妹は計画を練り直したほうがいいと言う。では車で宿まで送ってくれと妹に頼むと、その「軽気球」で帰ればいいじゃないかと言う。なるほどと思い、ふわふわ街の中を移動しはじめると、この乗り物にブレーキがないことに気づく。

(2013年11月2日その2)

牛落とし

押すように雨の降る安達太良山中で、竹の姿をした二頭の牛を導き、いっきに駆け下りようとする途中、一頭は脱落して見失い、もう一頭は急な段差に怖気づき固まってしまう。もう先頭を争うこともないから、と優しく肩を貸してやると、竹は肩に足をかけて奮い立ち、阿武隈川を目指して駆け下りていった。

(2013年9月5日)

仁王炎上

文京区の神社仏閣を巡るバスツアーから、一人だけはぐれてしまった。文京区は山麓のゆるい斜面にあり、立体イラストマップにはたくさんの寺や神社が重なり合うように描かれている。いちばん手前に描かれた麓の大きな寺で待っていれば、必ずまたツアーに合流できるはずだ。
境内の参拝者に混じって、洋服を着た猿が潜んでいる。布で顔を覆っても、異様に鮮やかな顔色から猿だということはすぐにわかる。狡猾な猿は人の命を狙っているので、僕は猿を静かに威嚇しながら本堂にたどり着く。説明書通りの回数だけ拍手を打ち、干し草で作られた線香に火を点ける。
山門の柱の中に、草で作られた仁王が立っている。僧が供養の念仏を唱えはじめると、仁王の草は煙を上げて燃え始めた。乾いた草は瞬く間に閃光電球のようなまばゆい光球となって燃え尽き、仁王の頭部は草の支えを失い、鉄の骨格と化してごろんと地面に転がり落ちた。
忌まわしいことだ、お祓いをせねば、と、合流したツアーの友人たちと相談するが、僧は携帯電話を肩にはさんで宮司と話している最中で、それどころではない。
参道の階段を下りながら、寺門孝之、うるま、中村理恵子と僕の四人で、リアルとはなんだろうという話になる。寺門さんは、自分にとってリアリティとは、毎年2月11日にニューヨークに行き愛を確かめることだと言う。3.11でも9.11でもなく2.11だからリアルなのだ、とうるまが言う。

(2012年9月12日)

木の魂を抜く

アルバイトに来た会社の長いソファで、社員の机にあったトランジスタ技術を読みながら、何を待たされているのかわからないし、担当の名前すら知らない。休憩に戻った作業服の社員たちが、「担当!」と叫んでくれたおかげで、革ジャンを着た長身の担当が、お約束のおどけた仕草で登場し、会社の奥へ導いてくれる。
製品陳列棚の奥には木工部門があり、資材置き場があり、駐車場があり、鉄門の裏口があり、山につながる小道がある。山を下ってきた作業員たちは、うっすら緑の土を被り、魂を亡くして表情がない。
僕は山を登りはじめたものの、なにか馴染めない。仕事をすると決めたわけではない、と自分に言い聞かせながらも、気づくとかなりの標高まで登ってしまった。「やすこが来た」という無線連絡が入り、谷あいの道にそれらしき人影を見たので、彼女がこの半端な状況を打開してくれるかもしれない、と思う。
石灯籠の断片に腰を下ろし、森の下草に紛れていると、前触れもなく儀式は始まった。向かいの山の数百メートルもある杉の巨木は、根本に入った切り込みが限界に達し、傾きはじめた。先端がこちらの山にかかると、木は大きくたわみ、その反動で向こうの山側に帰っていく。それらはことごとく予想をはるかに超えるスローモーションで、静止画を見ているようだ。しかし木がもう一度ゆっくり倒れこんでくるのがまさに自分の方角だと気づいたときには、逃げきれそうにないほど加速している。
伐り倒される木の内部から円筒形の「木の魂」を抜き出す男が、巨木の先端に跨っているのが見える。木の魂を括った縄のもう一端を自分自身に括り付け、木が山にぶつかる衝撃を使って魂を離脱させようというのだ。カプセル状の魂と紐づけられた男は、ハンマー投の着地のように地面を削りながら減速し、男の体もあちこちの岩に弾かれたが、彼は熟練した正社員なので死ぬことはない。

(2012年9月1日)

画素格子

絵を拡大していくと画素の中に絵がありその画素の中にも絵がありさらにその中にも絵がある映像を投影して、世界はこのように無限の細部があるのになんで単層のつまらない絵など描くのか、と口走ってしまう。講堂を歩き回りながら、こんなふうに煽るつもりはなかった、連画について話しているのに、このままでは収拾の見込みがない、と思い始めたところで高野明彦さんがマイクを取り、持参した試料にガイガーカウンターらしき装置をあてたので、僕はこの窮地を切り抜けることができた。装置はあちこち光りはじめるが、しかし装置がα線源に反応しないのを僕は知っている。

講堂の灯りが揺れはじめた。次第に振幅が大きくなる。僕は外に出て財布やノートを置いてきた山岳地帯のガレージをめざして走った。地すべりも始まり、ここで自分の命を優先するか荷物を優先するか、迷いながらも崖をくりぬいたガレージに来てしまう。崩落した画素の格子に閉じ込められた男がいるのを見て、荷物はもうあきらめるしかないことを悟る。

(2012年8月20日その2)

火山岩に埋もれた古本屋

坂道のたもとで、美大生がガラス板に山火事の絵を写生している。しかし山火事はどこにも見当たらない。見渡す限り青いガラス質の火山岩が、ただごろごろところがっているだけだ。
坂道を登りつめたところに、古本屋がある。人がやっとくぐり抜けるほどの木枠の出入り口が五つあり、そのうちのひとつに靴を脱ぎ、中に入った。黒く燻された古民家の本棚を一通り漁り、そろそろ出ようとするが靴がない。ここは入った口とは違う敷居だ。靴を脱いだ出入口がどこにあるのか、迷路のような内側からは見当もつかない。ガラス窓の外を見ると、美大生の描いた山火事がどんどん迫っている。

(2008年11月27日)

架空階段

夜の干潟に佐々木が繰り出していることをラジオで知った。彼は、おこぜや小さい蟹などを獲りながら、どうせなら夜が明けるまで獲り続けようと思っている。その思考内容は、薄明の電波に乗って世界に筒抜けになっている。
僕は偶然を装って、どんより鈍色の朝の浜で彼に合流した。毛の生えた小さい蟹と引き換えに野菜をくれるおばさんは、浜には長い時間いるけれど、野菜を採るのに忙しくて蟹まで手がまわらないものだからと、なぜかしきりに弁解する。
砂浜の行く手に竜巻が三本、色違いの尻尾をいまにも地上に届かせようとしている。伏せたボートの中で写真を撮ろうと待ちかまえている連中がいる。無知ほど恐ろしいものはない。僕は竜巻映画を見ているので、巻き込まれたら命がないことをよく知っている。

気まぐれな竜巻の動きを注意深く見定めながら、階段や吊り橋や稜線を伝って登山口にたどり着く。竜巻を逃れて山に登るのは、これが初めてではない。いやそれは、かつて女と付き合いを深めていった過程と比喩的に相似なだけかもしれない。
標高千メートルを越えるあたりで、ある説明を思いつく。仮に一辺が1メートルの立方体の石を、画素のように階段状にずらして並べると、千画素目の石が標高千メートルである、と。すると比喩はそのまま実景になり、標高ゼロメートルからはるか上空千個目の石に、僕は震えながらへばりついている。

(2004年3月16日)

苦しい下山

ほとんど崖っぷちを歩いているように見える桜日さんに、お願いだからもうちょっと真中を歩いてほしい、と無線連絡する。小高い丘の頂上か、高い建物の最上階か、僕は鳥瞰する位置からファインダー越しの桜日さんを見ている。心配になって、自分も彼女の位置までやってくると、そこは意外に安全なスロープのヌーディストビーチで、しかも照明もなく薄暗い屋内プールだ。僕は、この人と山を降りようとしている。
彼女は昨夜、空からたくさんの火球が降る中、家族連れの富士通の社員とこの山にやってきた。山を発つ前に一言挨拶がしたいと言うので、彼らの宿を訪ねると、案の定白髪交じりのその男は以前どこかで会ってどこかで飲んだことのある男だった。僕は、天候が不安定な山をどんどん彼女と降りてしまう。彼女は、LIFEの英語版と日本語版を持ってきて昨夜は一人で読み比べて過ごした、と言う。すると僕は、桜日さんへの甘い恋心が湧き上がると同時に、僕には連れがいて数時間後に山の上で大事な講演の予定があったことを思い出す。引き裂かれながら、言い出しかねて、山に戻るか降りるかの決心がつかないでいると、にわかに黒い雲が立ち込めてきて、これはやはり山に帰るしかない、桜日さんを落胆させるしかないのだろうと諦め、大事に取っておいた百五十二円玉をよけて小銭を出し、ケーブルカーの切符売りのおばさんから切符を手に入れた。

(2002年2月21日)

火口でバレーボール

山腹の草原には、死んだ猫のまだ生暖かい血が溜まっている。そのすぐ近くで、僕は十人ほどの男女と円陣を組んでバレーボールをしている。和気あいあいと見えるのは表面上のことで、彼らは僕を拘束に来た連中だということを、僕はとっくに知っている。ふと眼下を見下ろすと、ここは巨大な死火山の山頂で、遠くカルデラ式の火口内面が緑色に霞んで見える。この状況にふさわしいBGMが流れてきて、こみ上げてくる号泣を喉元で砕きながら、こういう感傷的な音楽は好みではないし、そもそもこの配役は自分に似合わないと思う。

(2000年10月6日)

黒い水棲あけび

山岳地帯を奥へ分け入っていくと、突然その村は現れた。岩を切り出した広い溝に、木の皮で作った幌がかけてあり、幌の下に「何か」がたくさん保管されている。あやうく幌に足をかけ、中の「何か」を踏みつぶしそうになると、「何か」はそこで生活しているたくさんの人の頭であることがわかる。こんな暮らし方もあるのか、と声を漏らすと、この村には雨ざらしの岩の上で手足を縛られて暮らしている女たちもいる、と幌の中の誰かが説明を加える。

山を降り、いつのまにか急流に囲まれた畳岩の上に取り残されている。まるで雨ざらしの女たちのように、身動きがとれない。カウボーイ風の父親が畳岩に這いあがってきて「さてわれわれは何を食って生き延びようか」と言う。父は川の中に手を差し入れ、そこに生えているあけびのような実をもぎ取った。
「これは食えるだろうか」と父。さあ、どうだろうと答える前に、父はすでに美味そうに頬ばっている。
ふと、あけびと同じような形をした黒い動物が、すばやい動きで川の中から近づいてきて股間に貼りつく。それは払いのけても数十秒もするとまたやってきて、同じように貼りつく。父の股間にも、同じ種類の黒あけびが貼りついているが、父は「俺は放っておく」と、まるですっかりおなじみの事態であるように、相変わらずあけびを食い続けている。そんなものかと思って自分も放っておくと、睾丸の袋までしっかり取りついたそれは、じわじわと養分を吸い出しはじめているようだ。

(2000年2月16日)

火口を臨む家

ウィンクの片方の女の子の実家に、インタビュー番組の取材に来ている。
「こんな変わったところに建っている家があるなんて」
「みんなにそう言われます」
家は山岳地帯の急傾斜の中腹にある。家の出窓に彼女が座り、肩越しに外の景色をカメラでとらえようとしていると、山肌や空がみるみる白いものに包まれていく。山岳地帯特有の濃霧かと思うと、霧の晴れ間のはるか下方に小さい火口があって、そこからもくもくと煙が出ている。赤い炎も見える。
彼女の弟がキャッチボールをせがむので、部屋の窓からボールを投げると、彼はまるで平地のように斜面を走り回っている。
「あんなことをしていて、いつか火口に落ちやしませんか」
「大丈夫なんです」
この人たちは、こういう特別な環境で育って本当によかったなぁと思う。

(1996年8月5日)