rhizome: 性器

異世界恋愛

自分の恋人に見慣れない股がついている。ここは性器がときどき入れ替わる世界だから、と恋人が言う。恋人のいつになく薄い陰毛を毛づくろいしながら、ここを触ると嫉妬するのか?と尋ねると、これはフリーセックスのKNのものだから大丈夫だよという。この世界で愛を確かめあう言葉を探すのは難しいな、と思いながら恋人の右目を見ると涙がとめどなくあふれて、尋常でない液量なので瞼を広げてみると眼球が若干小さくなっている。

(2018年6月22日)

潜在性器

下半身裸で動く歩道に乗っている。先に行くSamに続いて、自分も検査が始まる。腰の位置を動かして小さい鏡の枠の中央に性器の像が収まるように調整してください、と言われる。次は女性器の検査だと言われ、とまどいながら背後側を向けると、鏡の中に見たことのない自分の女性器が見える。腰を動かすと位置を合わせこめるので、これは確かに自分のものだ。

(2017年3月31日)

無言タイプの妹

検査のため病院のベッドに横たわっていると、下半身の衣服をまとめて引きずり下ろされる。先端に太いネジのついたゴムサックを性器に被せ「このまま少しつけていると、沁みだした液体を解読して全部の検査が終わるから」と看護婦さんが言う。
しばらく病院のあちこちを歩きながら、ゴムの先端ネジをカメラの底にねじ込むとぴったり嵌る。思った通り、雲台と同じネジ規格だ。看護婦さんがサックを外しに来る。もったりと他人のような性器が現われ、濡れた薬の匂いを放っている。
一人乗りの小さい車で水路沿いのバラック小屋に帰ると、玄関の前で声をあげて争うふたりの子供がいる。仲裁のために近づくと、子供の姿はなく、水の入った二つのペットボトルの間に赤い蟻が行列を作っている。玄関から覗くと、妹が帰ってきている。お医者さんから検査結果を聞くのを忘れてうっかり帰ってきちゃったよ、とおどけてみせるが、妹は終始無言だ。何か怒っているわけではない。これは声が欠落した種類の妹なのだ。

(2015年7月1日)

ウーパールーパーの部屋

往年の女優らしき歳老いた女と裸で暮らしている。首まわりなどに皺はあるが、体は艶やかだ。ときおり僕の性器の重さを量りにくるが、情事には至らない。カップラーメンに入っている調味料の袋を鋏で切って、中にある「次にすべきこと」の書かれた紙片を取り出すが、そこに情事と書かれていないから、情事はしないのだと彼女が言う。
「それが今とんでもないものを見たのよ」と言いながら、友人たちがなだれこんでくる。エレベーターの箱いっぱいに、身動きのとれなくなった巨大ウーパールーパーが嵌っていたのだと言う。そうこうしているうちに、この部屋は放射状の郊外鉄道を斜めに遡り、高田馬場駅へ到着する。

(2014年3月24日)

グンゼビル

お堀端のこのビルは建物全体が回転しているので、窓からの風景がゆっくりと一方向に流れている。終電も過ぎ、曖昧になってしまった待ち合わせを諦めようか迷っていると、グンゼの広告撮影のため集められた少年少女たちが白いメリヤス下着に身を包み、階段の手すりあたりでたむろしはじめる。勃起がパンツを押し上げているのを見つけられてしまった少年を、少女たちは面白がって取り囲み、一人の少女が自分のパンツを下ろして見せる。
壁面がまるまる電子書籍になっている隣のビルに、ちょうど窓の方角が合うのはこれで三回目だ。本が巡ってくるまでの間に自動でめくられた数ページぶん、物語が抜け落ちてしまう。もう帰ろう、そう決心して一階の出口に降りてくると、回転する鉄製ステップの意外な速さに怖気づいて、なかなか外に出ることができない。

(2012年10月7日)

風船の下部

高台にあるこの地区一帯には街灯がなく、日暮が迫ると街全体がいっきに暗くなる。坂を下りながら、まだ夕映えの残った遠方の建物が異常に近く見える。どこからか無数の風船が舞い上がり、ゴムの口を縛った空気穴は重心の偏りでみな下を向いている。風船の下部が小さい性器になっていて、それらがたまらなく愛おしい。

(2009年12月1日)

飛ぶガラス管の部屋

臍から性器に向かう細い道がある。その道が枝分かれする腹部を撫でながら、僕と女は進化樹の撹乱について、腹の上の図をたよりに議論している。
昨日は三角フラスコのような白くて小さいブラウン管が飛んでいた。なぜ無生物が飛翔するのだろう。今日は、カプセル錠剤ほどの小さいものが、部屋の中を飛び回っている。昆虫をつかまえる要領で掌に捉えると、それは乳白色の細長い豆電球で、簡単に割れ散ってしまう。
女は短すぎるスカートから裸の尻をむき出しにして、温泉のある建物に向かって歩いていく。背後から見ている僕には、尻の間から覗く一筋の線と、際どい肌の余白に彫られたfig.という文字が見える。たまたま玄関に居合わせた男が勃起を隠そうとするので、彼女の前の線も見えていることがわかる。ちょっとスカートを下にずらしたほうがいい、と温泉に消えていく彼女の背中に向かって何度も声を投げかけるが、伝わらない。

(2008年11月20日)

蛾で封印

高架駅への近道だ、と思って細い階段を昇りきると、もう一度降りないと駅にたどりつけない「徒労の階段」であった。あきらめて階段を下り、次の上り階段にさしかかる谷に、風呂桶ほどの水溜りがあり、顔色の悪い裸の女子高校生が泥水に漬かっている。早く帰宅するようにたしなめながら死体のような女を引き揚げると、意外に体温は高く、声も快活なので安心する。狡猾な男の腕のようなものが女の性器から外れ、泥水に浮いている。女を捕らえていた邪悪な男性器のようなものの周囲に、ぐるぐると蛾の吐き出した糸を巻きつけておいた。

(2007年8月15日)

二つの太陽

子供は部屋で古いデジカメをおもちゃにして遊んでいる。太陽が二つあり、まだ沈んでいない片方は宗教団体が作った人工の太陽で、電球色の表面に動画が仕組まれている。女は30日のパーティーのために、古い高層建築の最上階にある魚屋で買い物をしている。30日に来る男のために女が昂っているのを僕は知っていて、変わった生魚の切り身を前にしながら嫉妬で機嫌が悪い。子供がおもちゃのピストルで遊んでいる隣の部屋で、僕は女と二度目のセックスをしようとしているが、女の股間は○と×の記号が縦に並んでいるだけで、○をいくら舐めても彼女に次の発情がやってこない。多夫多妻を推奨する宗教のせいで、みんな気持ちが変わってしまった。ひとりの女にこだわる時代遅れの感情をどうにかしないと、いろいろなことがうまくいかない。いつのまにか帰宅した父が女と関係していることを僕は容認していて、しかし意外に若い父の勃起を目の当たりにすると、許せない気持が沸き起こる。女は次々と過去の恋人を自分の動画に重ねては取り替えている。相手が誰に定まるわけでもないのに、彼らが僕を話題にしながら裸体を重ねることを想像していたたまれなくなり、二つ太陽のある夕暮を散歩しようと自分の靴を探しはじめる。

(2007年2月20日)

迷路の情事

コンクリート迷路の深い行き詰まりに、自分の部屋がある。そこから迷路をはるか逆にたどった出口に、玄関がある。遠い玄関の鍵を掛け忘れていないか、Sは気がかりで落ち着かない。しかし玄関まで行く気力が湧いてこないので、僕はSの気を逸らそうとしている。屋外迷路には天井がないので、容赦のない日差しが唇にあたってひりひりする。Sの切れ込んだ股は襞が濡れて光っているのに、顔の唇はかさぶたのようにごわごわしている。そう易々と気を紛らわせてくれないSは「私はキスが嫌いだったんだ」と言う。Sの腹部は半透明の乳白色で、左脇から管が痛々しく挿入されている。右脇の管は外れて、ミルクチョコレート色の液体が漏れ、くぼんだ腹に溜まりかけている。

(2004年7月3日)

石棺の女

駒込の交差点は、車両を通行止めにしているせいかいつもより広々と感じられる。そこに儀式めいた黒い車や、霊柩車、テレビの中継車などがゆっくりと横切っていく。人の歩く速度の車列についていくように歩いているのだが、道筋はまるで廃品回収の車のようにあてどもない。テレビのモニターに映る自分の服装は、性器のあたりだけうっすら黒々と透けていて、作者の意図を重んじてそのまま放映しています、というテロップが重なっている。死んだ女性は何とか皇子といった名だが、そんな名前だったのか、もっと普通の名前ではなかったのか、と混乱しながら、一足先に彼女の家に行ってみることにする。彼女がいったい誰だったかはっきり思い出せないのは、自分の脳の連続性がおかしくなっているのだと思う。しかも目の前の女は生きていて、よしよしどうした、何しよう、まずご飯を食べようか、などと狼狽する僕をなだめてくれる。僕は平静を装いながらも、いま一番したいのは食事ではなく体をぴったりくっつけることだと言うのだが、相手の体は視界になく、体と体の組み合わせ方をいくら考えても、対象が四角い石棺になってしまい、頭の中で形が組み合わないのは自分の脳のせいだと思う。つい口にしてしまう「死ぬのって時間かかった?」という問いに「そうねぇそんなでもなかったよ」と答えた女は、死んだことが確定したとたんに顔がSamになり、涙と苦しさがとめどなくこみあげてきてどうにも止まらなくなってしまう。

(2003年7月9日)

巫女の楽器

東上線沿線の山寺を改造した蕎麦屋に来ている。板の間に腰を下ろし蕎麦を待っていると、白装束の巫女が僕の股間に顔をうずめてペニスを舐め始める。思わず発した自分の声を、自分で止めることができない。巫女が指で管を開閉するまま、声が笙の和音になってしまう。

(1999年6月12日)

見ながら出る映画

鎌田恭彦監督による作品の撮影が進行している。舞台上で、名前の思い出せない男優と女優がセックスしているのを、われわれは高い客席から眺めているのだが、どうも男と女の性器が入れ替わっているように僕には見える。誰もそのことに気づかない。
ドキュメントとフィクションの新しい融合を目指しているのだ、と鎌田監督が意気込みを語りはじめた。しかも編集とライブが交錯していて、撮影しながら編集し、それを観客に見せながら観客自身を登場させるのだと言う。

すると、なるほど僕がスクリーンに出てきた。石原裕次郎の歌を歌いながら、パステルで絵を描いているシーン。絵はまるで早回しのビデオのように、高速に仕上がっていく。この歌を歌った覚えがないし、この絵を描いた覚えもない。が、それはあきらかに僕の声と絵なので、とても恥ずかしい。隣でスクリーンを見ているRが「ああいう色の入れ方はタブーだ」と言う。自分の絵ではないが、余計なお世話だと思う。

次はRがビルの谷間の池で泳いでいるシーン。全裸なのにCGなので乳首や陰毛がない。鎌田さんが、もう1テイクこのシーンを撮りたいと言う。寒いからいやだとRが拒む。

次のシーンで僕は、宇宙連合軍に囲まれた敵役の総統になり、しゃべりながら顔の部分部分が自分になったりほかのものになったりする巧みなモーフィングに組み込まれる。雪の降りしきる現代の桜田門駅のあたりで、僕は殺られてしまい、よろめきながらさまよい、ついに力尽きて倒れると、半ば融けかかった雪の中で大根おろしに漬かった餅のように自分が見える。

確かに撮影済みの過去と撮影中の現在に切れ目がなく、これはすごい作品だ、と思いはじめたところで、先月若くして亡くなった日本画家某の葬儀会場にここを使いたいという人たちが雪崩れ込んできて、やむなくわれわれは撤収にとりかかった。

(1997年3月16日)

太った巫女

スパイが暗躍する町の、大きな中庭のある建物に入っていく。誰もいない空間なのだが、たくさんの人の気配がある。
この建物には、異様に太った女の祈祷師がいる。彼女の祭壇のある部屋に、突然入りこんでしまった。彼女は闖入者の気配に動じることもなく、自分の小陰唇の皺の形で占いをしている。

(1980年頃)