rhizome: 斜面

孤独な三塁

最新式のグローブを手渡され、サードを守ることになるのだが、三塁ベースは山の頂上にある。グローブの中に仕組まれた機械の仕組みがわからず、どうしても小指の穴が足りない。ボールを高く投げてフライを取る練習を始めると、取りこぼすたびにボールは斜面から落ち、登ってくる人がボールを運んできてくれる。

(2013年11月11日その1)

仁王炎上

文京区の神社仏閣を巡るバスツアーから、一人だけはぐれてしまった。文京区は山麓のゆるい斜面にあり、立体イラストマップにはたくさんの寺や神社が重なり合うように描かれている。いちばん手前に描かれた麓の大きな寺で待っていれば、必ずまたツアーに合流できるはずだ。
境内の参拝者に混じって、洋服を着た猿が潜んでいる。布で顔を覆っても、異様に鮮やかな顔色から猿だということはすぐにわかる。狡猾な猿は人の命を狙っているので、僕は猿を静かに威嚇しながら本堂にたどり着く。説明書通りの回数だけ拍手を打ち、干し草で作られた線香に火を点ける。
山門の柱の中に、草で作られた仁王が立っている。僧が供養の念仏を唱えはじめると、仁王の草は煙を上げて燃え始めた。乾いた草は瞬く間に閃光電球のようなまばゆい光球となって燃え尽き、仁王の頭部は草の支えを失い、鉄の骨格と化してごろんと地面に転がり落ちた。
忌まわしいことだ、お祓いをせねば、と、合流したツアーの友人たちと相談するが、僧は携帯電話を肩にはさんで宮司と話している最中で、それどころではない。
参道の階段を下りながら、寺門孝之、うるま、中村理恵子と僕の四人で、リアルとはなんだろうという話になる。寺門さんは、自分にとってリアリティとは、毎年2月11日にニューヨークに行き愛を確かめることだと言う。3.11でも9.11でもなく2.11だからリアルなのだ、とうるまが言う。

(2012年9月12日)

松庵寿

下赤塚から北の崖線へ至る途中、急峻な岬状の丘を分けるY字路があり、そこに松庵寿というコンクリート製の地蔵がある。素人が趣味で作ったらしき地蔵は、ときどき思いつきで悪趣味な姿に変わるし、ご利益などなにひとつなさそうだ。にもかかわらず、コンクリートの斜面をよじ登っていくほどに、なかなかたどり着けない地蔵への思いが募る。

(2010年10月17日)

砂のゲレンデ

一面砂の斜面は、一度降り始めたら止まらないほど急峻なゲレンデで、先に降りてしまった相方がどこにいるのかもわからず、怖気づいて滑り出すことができない。しかも、スタートラインより前は広告ページになっていて、どのページまでが広告なのかは、見る人によって判断が異なる。また「しまぶくろの理論」と称する解説ページも挿入されていて、斜面を滑るときの意識の集中ゾーンがおでこのあたりにあることが示されている。ページをさかのぼって屋上には、白いコンクリートにローラーを転がして、亀裂に雑草を植えている男がいる。

(2008年7月28日)

ストリートチュードレン祭り

竹内郁雄氏一行を乗せたトラックの荷台に乗りそこねてしまったため、僕はひとり遅れてレストランにたどり着くと、彼らはすでにテーブルに直接拡げた食い物を手で掬い上げては頬張りはじめていた。ここは皿とテーブルが、まだ分節化していない。
外は海外のストリートチュードレンを日本に紹介する祭りの最中で、切り立った斜面に挟まれた道は、招待されたにしてはあまりに多すぎる家のない子供たちであふれている。足をぶらぶらさせながら土手に腰掛けている少年たちが、笑いながら手を振っている。

(2008年3月19日)

ミルク色の死者

斜面にめり込んだ家々の屋根より、坂道のほうが高いところにあるので、道から注意深く足を伸ばして天窓に入ることができる。天窓から壁を伝って部屋まで降りる途中で、いままでいっしょにいたnanayoが居なくなっていることに気づく。
どこではぐれたのかまったく思い出せない。僕は彼女が死んでしまったことを感じ取っていて、せめて彼女が部屋のどこに残っているか考えはじめる。
銀色のスプレー缶の噴出口と、点火したガスバーナーの噴出口を向かい合わせると、スプレー缶の先は次第にオレンジ色に光り始める。炎が尽きると、印刷された取扱説明の文字の上に、濃いミルク色の物質がわずかに残る。その物質を指で掬い取り舐めてみるとnanayoの味がする。彼女はやはりここに居て、缶の中にとどまっていてくれた。

(2007年10月3日)

船を積み重ねたレストラン

川の中州にある高層レストランは、船が堆積してできている。船は積み重ねるのに適した形をしていないために不安定で、階を上がるごとに傾斜が蓄積して揺れも大きくなる。河合奈保子さんといっしょに登りながら、ここまで登って来られたのは彼女がみんなにたくさん笑顔をふりまいてくれたからだ、と感謝の気持ちが沸いてくる。最上階の船までたどり着くと、はるか地上の川面がきらきら輝いている。平らであるはずの甲板は、揺らぐたびに曲面に見える。波打つ斜面を滑り台のように滑るのが楽しくて、せっかく登った高度をすっかり無駄にしてしまった。

(2004年4月2日)

火口でバレーボール

山腹の草原には、死んだ猫のまだ生暖かい血が溜まっている。そのすぐ近くで、僕は十人ほどの男女と円陣を組んでバレーボールをしている。和気あいあいと見えるのは表面上のことで、彼らは僕を拘束に来た連中だということを、僕はとっくに知っている。ふと眼下を見下ろすと、ここは巨大な死火山の山頂で、遠くカルデラ式の火口内面が緑色に霞んで見える。この状況にふさわしいBGMが流れてきて、こみ上げてくる号泣を喉元で砕きながら、こういう感傷的な音楽は好みではないし、そもそもこの配役は自分に似合わないと思う。

(2000年10月6日)

高所のいさかい

自転車で地下から地上へ、さらに坂を登りどんどん高度を稼いで川を一望する長い橋の、さらに吊り橋を吊る柱の頂上まで来てしまった。一気に登ったものの、さてどうやってここから降りるのか、降りる怖さを知らないで登ってしまう山の初心者のように足をすくませながら考えあぐねていると、未成年の男女が高所で言い合いをしている。こんなくだらない話題でよくもそんなに真剣になれるものだ、と嘲笑しているつもりたっだが、うかつにも女の語調に巻き込まれ号泣している自分が照れくさい。

(2000年9月26日その2)

林檎ぴいとお

陽が暮れかかっている。早く帰らなくてはならない。自転車でなだらかな斜面を降りながら、熱気球を50cmに縮小したような洋梨形の白い風船を探している。
あきらかに、その子供たちが風船を盗んだのだ。彼らの仲間同士の会話が、それを裏付けている。僕は大人げ無く凄みながら、彼らを問いつめている。彼らのひとりが、風船を返してもいいと言う。ただ、その風船がなくした風船かどうかは、わからない。たくさんあるから。
彼らといっしょに斜面を自転車で降りていくと、下に行けば行くほど、たしかに風船がそこここにある。白いものばかりかと思っていたら、赤いもの、青いもの、さらに大きなものまで、たくさんある。子供たちは、きっとこれがなくした風船だから、と言って一つを差し出した。それを受け取ろうと握った掌をすり抜け、風船はさらに坂を下ってしまった。
僕は風船を追いかけて、古い公民館らしき建物の中まで来てしまった。建物の床にはたくさんの風船がひしめいていて、広い畳敷きの部屋で女の子が風船遊びをしている。
この風船は、九州のとある地方のお祭りに使うもので、ある日たくさんの女の子が手をつなぎ、無数の風船を次々と隣の女の子に渡していくのだそうだ。そのたびに「林檎ぴいとお」と口ずさむので、まるでその日は、空全体が鈴が鳴るように声に満ちるのだと言う。
もうすっかり暗くなってきたので、早く帰らなくてはならない。まずは電話をかけよう。しかし、僕はなんとかこの建物の中から大人をみつけて、「林檎ぴいとお」の話の続きを聞き出そうと思っている。

(1996年10月16日)

火口を臨む家

ウィンクの片方の女の子の実家に、インタビュー番組の取材に来ている。
「こんな変わったところに建っている家があるなんて」
「みんなにそう言われます」
家は山岳地帯の急傾斜の中腹にある。家の出窓に彼女が座り、肩越しに外の景色をカメラでとらえようとしていると、山肌や空がみるみる白いものに包まれていく。山岳地帯特有の濃霧かと思うと、霧の晴れ間のはるか下方に小さい火口があって、そこからもくもくと煙が出ている。赤い炎も見える。
彼女の弟がキャッチボールをせがむので、部屋の窓からボールを投げると、彼はまるで平地のように斜面を走り回っている。
「あんなことをしていて、いつか火口に落ちやしませんか」
「大丈夫なんです」
この人たちは、こういう特別な環境で育って本当によかったなぁと思う。

(1996年8月5日)