rhizome: 床

実験ハウス

居酒屋の二階で、新田君はブルドッグのようにたっぷりとした顎を床板に乗せ、体を冷やしている。彼が結婚したことを母から聞いていたので、新居はどこか尋ねると、城北高校の近くだと言う。その場所はよく知っているよ。
新しい家のいちばん奥の部屋には、壁に塗りこめられた螺旋階段があり、それは各階につながっているので、ときおり上下の住人が行き来するのが見え、部屋に紛れこんでくることさえあると言う。設計者はプライバシー感覚の革新を狙っているのだが、思想が壁に塗りこんである家に住むのはごめんだね、と新田君が言う。

(2012年8月20日その1)

池袋高原

泥まみれの絨毯のように重なりあった何頭かの牛が、地面に貼りついた頬を動かして何かを食んでいる。池袋に三か所しかない眺望の開けた高地のひとつにたどり着いたものの、この古い民家の中に入らないと遮られた絶景を見ることはできない。
屋敷の玄関に向かって進んでいくと、意図に反する何かが軌道をずらし、床下に紛れ込んでしまった。湿った縁の下に住んでいる老婆が僕と連れの女に呪文をかけたので、僕らはブランクーシの抱擁の形で一体となり、床下の地べたに投げ出されたままぐるぐる回りはじめた。どうあがいても、ふたつの不随意筋の絡み合いがほどけることはない。

老婆が不意に靴下を脱いで、農作業で変形した足と、そこに貼った木片を見せた。大工の墨書きがそのまま残る粗末な板が痛々しく、同情をこめて痛くないのか尋ねると、木は木に貼ってあるだけなので痛くないと言う。
僕らはそろそろ退散しようと、散乱した自分の持ち物を、木のリコーダーは木のリコーダー同士、同類のものをまとめはじめると、ころころと落ちた何か小さい持ち物を女の子が持ち去ってしまう。机の下を覗きこむと、小さな動物になった女の子が、赤地に白い水玉模様の菓子をラッコのように胸の上に乗せ、舐めている。

(2012年8月7日)

北朝鮮の列車

列車に乗って北朝鮮を旅しているのだが、中国語で話しかけてくる男や、日本語は通じないと油断して会話している日本人などばかりで、ようやく見つけた地元の女の子にカメラを向けると、アナログのダイアルのついたカメラを、彼女もまた僕のペンタックスに向け、写真機で写真機を撮り合うことになる。北朝鮮の列車は、末端まで歩くと列車の床とホームがシームレスにつながっていて、しかもホームと駅の外も継ぎ目がない。意識せずに歩いていると危うく列車から離れ、道に出てしまう。再入場を咎める駅員に切符を見せて説明するが、言葉が通じない。

(2012年7月4日)

古書店の笑う猫

古書店店主の屋敷は板張りの廊下が迷路のようで、それが宗教団体としての威厳と財力を誇示している。僕は、古書店店頭の廉価本を十万円ほど買いあさり、その支払いのためにやってきた。これは果たして上手な買い物だったのだろうか、いくぶん悔いる気持も頭をもたげながら、なかなか店主のいる場所に行き着けない。黒光りする廊下の奥で、赤く充血した眼をかきむしりながら人間のように笑う猫が、こちらを見ている。

(2008年5月17日)

劇場地獄

赤いフェルト貼りの階段を、太った中年女がゆっくりと上っていく。ちょうど目の高さに女の白いふくらはぎが来る間隔を保って、僕も階段を上っている。指定席を探しているのだが、どこまで行っても目指す座席番号に到達できない。女は座席を見つけたのか、いつの間にか消えている。ついに劇場の最も高い壁の淵に一人で立っているのだが、ここはもう座席ではない。壁にはやっと乗るほどの足場があるものの、壁自体が斜めにせり出しているので、縁に指をかけないと落ちてしまう。恐怖心を振り切りいっきに渡りきると、同じようにしてたどり着いた人たちが落葉のように吹き溜まる場所がある。床板の傾斜に堪えながら、番台の男の出すクイズに答えないとここから帰ることができないルールは、テレビを見てよく知っているのだが、滑り落ちないように手足をつっぱるばかりでクイズどころではない。

(2002年7月5日その2)

急勾配の隣人

家の南側に庭を造ったものの、腑甲斐ない父親は今になって隣人への挨拶をためらっている。工事してしまった後でなんて言ったらいいのか、などと口篭もっている。まったくしようがないから俺が行ってくる、と着替えをして出かけようとするが「半ズボンはやめなさい」と母親。脱ぎ捨ててあった作業服をとりあえずはくと、工事担当者に「性感帯に気をつけて」と言われる。気持の悪い男だ。
隣人宅の玄関は不自然な急勾配の上にあり、引き戸をあけると待ち構えていたようにおばさんが奥の座敷で「どれ、見に行くか」と立ちあがる。何か一言挨拶しようとするのだが、この家の床はちょうど僕の鼻あたりの高さで、しかも床から川のように水が流れてきて、口を開くと危うく水を飲みそうになる。いつのまにか我が家の庭に向かっているおばさんを追いかけようとするが、戻るのが困難なほど玄関の外は急傾斜で、しかも玄関のまわりにある棚につかまると、オロナインの白い瓶などがどんどん下に落ちて行く。こんな環境で育ったから、ここの娘は特殊な反射神経をもった運動選手になれたのだ、と思うが、しかしなんの競技だったか思い出せない。

(1999年11月15日)

林檎ぴいとお

陽が暮れかかっている。早く帰らなくてはならない。自転車でなだらかな斜面を降りながら、熱気球を50cmに縮小したような洋梨形の白い風船を探している。
あきらかに、その子供たちが風船を盗んだのだ。彼らの仲間同士の会話が、それを裏付けている。僕は大人げ無く凄みながら、彼らを問いつめている。彼らのひとりが、風船を返してもいいと言う。ただ、その風船がなくした風船かどうかは、わからない。たくさんあるから。
彼らといっしょに斜面を自転車で降りていくと、下に行けば行くほど、たしかに風船がそこここにある。白いものばかりかと思っていたら、赤いもの、青いもの、さらに大きなものまで、たくさんある。子供たちは、きっとこれがなくした風船だから、と言って一つを差し出した。それを受け取ろうと握った掌をすり抜け、風船はさらに坂を下ってしまった。
僕は風船を追いかけて、古い公民館らしき建物の中まで来てしまった。建物の床にはたくさんの風船がひしめいていて、広い畳敷きの部屋で女の子が風船遊びをしている。
この風船は、九州のとある地方のお祭りに使うもので、ある日たくさんの女の子が手をつなぎ、無数の風船を次々と隣の女の子に渡していくのだそうだ。そのたびに「林檎ぴいとお」と口ずさむので、まるでその日は、空全体が鈴が鳴るように声に満ちるのだと言う。
もうすっかり暗くなってきたので、早く帰らなくてはならない。まずは電話をかけよう。しかし、僕はなんとかこの建物の中から大人をみつけて、「林檎ぴいとお」の話の続きを聞き出そうと思っている。

(1996年10月16日)

代筆女

いよいよ更衣室に入ると、風呂場のように「男」「女」と書いてある。木の床が黒光りしている。誰もいない。
着替えたあとで、小便をしようと立ち寄ったトイレの傍で、真面目そうな女が宛て名書きの代筆をやっている。文字に曲線がない。機械のように直線を組み合わせて文字を書いている。
「いつかお願いするかもしれない」と言うと彼女は、
「文字の中心がずれないように薄く鉛筆で線を書いてしまいますけど、いいですか?」
僕は一瞬迷いながら、
「今度是非お願いする」と言う。

(1996年1月8日その2)