rhizome: 撮影現場

棲みつく俳優

赤いちゃんちゃんこの室井滋が、炬燵でれんこんを食べている。部屋の主は別の女だが、室井は女の行動を完全に把握しているので、不在のあいだこっそり入り込んではくつろぐのが習慣になっている。部屋の主が外出する影が窓をよぎるのを、室井が見ている。鍵はどうしたのか、と尋ねると、部屋は撮影のセットだから、半分外に開いているから、とカメラ目線で室井が説明し始める。

(2015年3月7日)

ベンヤミン監督のリアルタイム映画

塔のバルコニーにたっぷり湯を溜めて、往年のIT業界のリーダーたちが浸かっている。IT誌の編集長だった男が「バルコニーごと落ちるかもな」と言って冷やかにそれを見ている。不自然に傾斜のある会場に椅子を並べ、パーティは始まろうとしている。サンドウィッチを作っているロシアのおばさんにあれこれ注文すると、面倒臭そうに「おまかせ、とだけ言えばいいの」と言われる。会場に設置されたディスプレイでは、ヴァルター・ベンヤミンの作った映画が始まり、バルコニーの風呂やサンドウィッチ屋のおばさんとのやりとりが、映画のイントロとして映っている。これどうやって作ってるんだ、どういう仕組みだ、と周囲に聞きまくっている自分が映画の中にもいる。

(2014年10月1日)

シュレーディンガーの猫

8階の部屋でインタビューを受けている。カメラは向かいの建物に三脚を立て、望遠でこの部屋を狙っている。僕は、窓際に立つインタビュアーのイタオに「人間は視覚的に未来を見るが、猫は未来を見るために手を動かす」と話している。
8階に猫はいない。真上の9階には猫がいる。それを一発で撮るためにカメラを外に設置したのだ、とイタオが言う。
僕は8階にあるロボットの下半身を、どうにかしないといけない。9階に上半身があることを、僕はカメラの映像を見て初めて知った。下半身が動き出す前になんとか始末をつけないと、このロボットは自分の手を探し出してしまう。

(2014年1月17日)

見ながら出る映画

鎌田恭彦監督による作品の撮影が進行している。舞台上で、名前の思い出せない男優と女優がセックスしているのを、われわれは高い客席から眺めているのだが、どうも男と女の性器が入れ替わっているように僕には見える。誰もそのことに気づかない。
ドキュメントとフィクションの新しい融合を目指しているのだ、と鎌田監督が意気込みを語りはじめた。しかも編集とライブが交錯していて、撮影しながら編集し、それを観客に見せながら観客自身を登場させるのだと言う。

すると、なるほど僕がスクリーンに出てきた。石原裕次郎の歌を歌いながら、パステルで絵を描いているシーン。絵はまるで早回しのビデオのように、高速に仕上がっていく。この歌を歌った覚えがないし、この絵を描いた覚えもない。が、それはあきらかに僕の声と絵なので、とても恥ずかしい。隣でスクリーンを見ているRが「ああいう色の入れ方はタブーだ」と言う。自分の絵ではないが、余計なお世話だと思う。

次はRがビルの谷間の池で泳いでいるシーン。全裸なのにCGなので乳首や陰毛がない。鎌田さんが、もう1テイクこのシーンを撮りたいと言う。寒いからいやだとRが拒む。

次のシーンで僕は、宇宙連合軍に囲まれた敵役の総統になり、しゃべりながら顔の部分部分が自分になったりほかのものになったりする巧みなモーフィングに組み込まれる。雪の降りしきる現代の桜田門駅のあたりで、僕は殺られてしまい、よろめきながらさまよい、ついに力尽きて倒れると、半ば融けかかった雪の中で大根おろしに漬かった餅のように自分が見える。

確かに撮影済みの過去と撮影中の現在に切れ目がなく、これはすごい作品だ、と思いはじめたところで、先月若くして亡くなった日本画家某の葬儀会場にここを使いたいという人たちが雪崩れ込んできて、やむなくわれわれは撤収にとりかかった。

(1997年3月16日)

火口を臨む家

ウィンクの片方の女の子の実家に、インタビュー番組の取材に来ている。
「こんな変わったところに建っている家があるなんて」
「みんなにそう言われます」
家は山岳地帯の急傾斜の中腹にある。家の出窓に彼女が座り、肩越しに外の景色をカメラでとらえようとしていると、山肌や空がみるみる白いものに包まれていく。山岳地帯特有の濃霧かと思うと、霧の晴れ間のはるか下方に小さい火口があって、そこからもくもくと煙が出ている。赤い炎も見える。
彼女の弟がキャッチボールをせがむので、部屋の窓からボールを投げると、彼はまるで平地のように斜面を走り回っている。
「あんなことをしていて、いつか火口に落ちやしませんか」
「大丈夫なんです」
この人たちは、こういう特別な環境で育って本当によかったなぁと思う。

(1996年8月5日)