ぜひ見せたいものがある、と黒人の庭師に案内されたのは広い芝生の隅にある黒く塗られた小屋だった。持っていたノートを芝生に置き、上下に開くガラス窓を開けるのに手を貸すと、小屋の中にはさらにもうひとつ小屋がある。中の小屋から屋根を外すと、それは木の水槽だった。なみなみと張られた水はなぜか絶えず流れ、世界各地から集められた水藻が糸見本のようにたなびいている。集まってきた女子高校生たちが「わあ綺麗」と声をあげるが、暗く絡まり合う藻は美しいというより恐ろしい。
そろそろ講義が始まる時間なので、と言ってその場を離れるとノートがない。高校生のひとりが遺失物として届けたと言う。彼女に案内されて教務課に出向くと、薄い和紙をカットして作ったシールを受領証明としてノートに貼らなくてはならないと言う。安齋というアウトラインフォントの複雑な不要部分を剥がしながら、申し訳ないけれど授業が始まるからと、撚れた齋の字を無理やり手で押さえつけた。
selection: 選集
目白台高原喫茶
内田洋平と瀬川辰馬が、それぞれ縄梯子の一段を補修パーツとしてビニール袋に入れて所持している。僕はこれから栃木の祖母に会いに行く。彼らはこれから日経ウーマンのプロジェクトが忙しくなるので、なかなか会えなくなると言う。それではどこかで茶でも飲もうということになる。
新宿から山手線に乗り、目白の坂を登るところで電車はロープウェイに切り替わる。目白の垂直に切り立った岩場には、蔦の密生する廃屋がめり込んでいて、彼ら二人はどうやら廃屋内部を梯子で登り始めたようだ。廃屋最上階にある崖っぷちの喫茶店に入り、箱と番号が一致しない下足札を渡され、濃厚すぎるウィンナコーヒーを立ち飲みしながら彼らの到着を待っている。
火薬庫の清流
戦時中に火薬庫だったといわれる場所はいつも大きな赤門に閉ざされているが、通用門が開いているのを初めて見る驚きのあまり、つい中に入ってしまった。これだけ広い土地を遊ばせておけるのは、管理しているのが東大だからだろうか。地面は乾いているのに、目の高さからは浅い清流が流れているように見え、ときどき鮮やかな何かが魚のように素早く逃げていく。この場所にこっそりトラックを停め続けている業者に、これはいったい何なのかと訊ねるが、体を後屈しなければ大丈夫なのだ、と質問の答になっていない。これだけの空き地の存在を周囲から気づけないのが不思議で、門から外に出てぐるりと一周切り取るように道を歩きはじめると、火薬庫をとりまく家々は暗い飲食店ばかりで、どこもあまり客が入っていない。テーブルも椅子も置かない餡蜜屋に入り、店の奥に行こうとするが拒まれる。流しで手を洗うふりをして勝手口から裏に出ると、思った通りあの空き地に面していて、どの店も水のような幻覚のようなものを筒で吸い出している。ためしに体を思い切り後ろに反らすと、ふっと体が浮いて、このあたり一帯の地図が俯瞰できた。
肺呼吸からエラ呼吸へ
宇宙服を着ている。首回りの防水リングにはまだヘルメットが取り付けられていない。重い宇宙服を引きずるように二階まであがってきたのだが、手は読みかけた雑誌を握っているし、まだ小便もしたい。いろいろ覚悟ができていない。これから僕の頭部にはガラスの球形ヘルメットが被され、内部に液体が満たされ、肺呼吸からエラ呼吸に変わるにつれて小便も自然に排泄され、書き取る前に取りこぼしてしまう夢と同じように、水溶性の記憶だけ水に溶けだしてしまうはずだ。
平行世界の職人たち
工具箱の中には、専門外の人間には用途の見当もつかない奇妙な器具がいくつも無造作に投げ込まれていて、人類のすべての道具をアーカイヴしているわれわれにとってこのうえなく貴重な宝箱なのだが、工具箱の持ち主である彼らはあっさりと箱ごとそれを貸してくれた。助手は土手の上の明るいところまで道具箱を運び上げ、棚田のように飛び出す蓋を左右に開き撮影を始めた。助手は個々の道具をレイアウトしなおしながら、ふと思い出したように僕の黒いノートが山頂のあたりに落ちていたのを見たと言う。なぜ拾ってこないんだよ、拾うだろうふつう、と彼を責め立てながら、「れめめwiki」の新しい項目としてノートに書かれていた「アッケポロウ」という顔料の精製方法を思い出してみるが、記憶が細部までつながらない。工具箱の持ち主たちは、その顔料をマッシュルームの入った塩ケーキを作るやり方で作り始めている。彼らは可能世界の職人なので、道具箱がなくても比喩的な方法でなにごともこなすことができる。
螺旋詩
連句の持ち番がまわってきたので、一本の棒に蛇がからまっている図を描いた。螺旋を立体的に描くためには、前後の重なりを計画的に描かないとうまくいかない。技巧を凝らしたその句を次の西田裕一さんに渡すと、ここはやはり画像ではなくプレーンテキストでもらいたいのです、と言う。アンドロイドに入った電子辞書を繰りながら句を捻るが、絡み合う螺旋状の言葉がどうしても見つからない。
「か」の星座
駅の北口広場を飲み込むほどの湖に、船の丸窓と思しき部品が浮遊している。汚れたガラスにひらがなの「か」の文字が書かれているが、僕はそれを日本語の「か」として読むことを禁止されている。日本語を知らない異国人が「か」を形として見るように「か」を見なくてはならない。丸窓は浮き沈みしながら瓦礫とともに漂い、「か」は人の体になり、「か」はまた動物の顔にもなるが、気を緩めるとふとひらがなの「か」に落ちてしまう。
数珠手紙
彼女は朝方ばたばたと不意に帰ってきて、旅先で書いた手紙を差し出した。それは重くて大きな枠に嵌った手紙で、横に渡された何本もの凧糸に、さまざまなものが単語として数珠つなぎに層をなしている。手鞠状の茶葉、乾燥したキノコ、図書館のICカード、ニスで固められたゲーテの引用などなど。マツコデラックスの引用部分は、大きい松茸のカサが前後の行に被っていて、前後それぞれの行でも意味をなしている。これはすばらしい文学的技巧だ。しかしレトリックのすばらしさは理解できるのに、これが決別の手紙なのか仲直りの手紙なのか、それさえ読み取ることができない。まずはどこかにこれを保管して、時間が解読してくれるのを待つことにしよう。
濾過屋敷
三階に通じる階段は壊れた家具や古いレジ機械などのがらくたが天井まで累積している。立体パズルを解くようにして隙間を巧みに作り、くぐり抜けられるのは僕しかいないので、がらくたは濾紙の役目をして三階に僕だけを濾しとってくれる。ところが、暗い板敷きの部屋にはすでに子供が何人か入り込んでいる。ここのガラス窓は我を忘れて遊ぶ子供を濾過する性質があるから、ときおり路上の子供たちが滞在しては消える。
一方、曇りガラス越しに見える濾し残されたカスのような大人たちは、得体の知れないこの建物が嫌いだ。彼らはおどけたバックコーラスの男女のように声を合わせ、化け物屋敷と囃したてる。こちらも歪んだガラス越しの曖昧な輪郭の視覚効果を使って、いかにも化け物らしく彼らを威嚇する。
象の木
今日は部屋にこもって先生の遺品を整理するつもりだ、と彼女に伝える。彼女はメッシュのバッグにケータイを入れて、外出の準備はすっかり整っているのに、なかなか出かけようとしない。僕は薄紙に書かれた手紙をスキャンするために、スキャンスナップを探している。古いタイプライターなど、紙を吸い込む機械はいくつもあるのに、スキャナだけみつからない。何日かけてもこの部屋が整理しきれるとは思えないのだ、と女に言う。もしかすると、これは自分の遺品なのかもしれない、とも。
薄い化繊は重ねて着ると肌触りがいい、と女が言うので、僕は確認のために両方の掌を彼女の表面にこすり合わせ、いつのまにか女の体つきや匂いをまさぐりはじめたところに、この部屋を買いたいという一行がやってきて、ひどくがっかりする。
街はずれにある矩形の空き地まで、日暮れ方向に延びる道へ自転車で漕ぎ出し、例の不動産見学ご一行を追い越し、彼らより先に広場にたどり着くことができた。広大なその区画だけ白い光に満ちていて、野球少年たちがスローモーション撮影のようにボールを投げあっている。
巨木の切り株の形をした動物が何頭も、あちこち揺れながら佇んでいる。空き地に柵がないのは、彼らがおとなしい動物だからだろう。そのうちのひとつが、切り株上部の茂みの奥から象の小さな目をこちらに向けると、四つ足らしき下部の枝分かれを轟かせながら駆け寄ってくる。野球少年たちは動じず投球を続けている。僕は動物の駆け足の遅さと、そこからわかる動物の大きさにたじろいでしまう。
鉄錆タワー
東京の環状電車外回り線は、都心から葛飾区へ至る区間に十数本の東京タワーをくぐり抜ける。塗装のない剥き出しの鉄骨は暗闇のように深く錆びつき、乗客は車窓から手を伸ばして鉄錆を擦り取ろうとするので、タワーが近づくたびに無数の指の骨がかたかたと音をたてて鉄骨に当たる。
勇気を試そうというのか、ご利益があるのか、どうしてこんなに危険な習慣が根付いたのか由来がわからないまま、次のタワーが近づいてくると、自分の掌も自ずと錆を欲して奮い立っている。
クマカップル
幾重にもニスで塗り固められた古い校舎に、NHKの仕事で来ている。同じ仕事をしている和登さんとともに、クマの着ぐるみを纏って廊下を歩く。女グマの和登さんは、廊下の波型の壁にかたかたと爪を立てて機嫌が良い。「汗をかくのでお風呂に入りたいね」と女グマが言うので、「クマ同士二匹で入ろう」と誘いかける。ヒトとして誘ったつもりなのだが、クマとして着ぐるみのまま風呂に入ることになる。
透明なビニール風船でできた仮設ハウスの中で、子供たちは女グマともつれるように遊んでいる。空気穴からビニールの中に入ってみると、外見は同じクマなのに子供が寄ってこない。女グマはなぜかおねえさんと呼ばれ人気がある。首の継ぎ目や袖口など、着ぐるみのどこから内部情報が洩れるのかチェックするが、理由がわからない。
マゼラン雲銀座
上板橋の南口銀座からは、南半球でしか見えないマゼラン雲が見える。南口銀座の中ほど、おでん種の店で売られているゆで卵は、見た目よりやや青白くデジカメに写る。スペクトルの青方偏移を見るためにフィルムを装填したいのだが、デジタルカメラの裏蓋を開ける機構がどこに隠れているのかわからない。古書店の廉価本コーナーに座っている釣り堀のおやじは夕焼けを眺めながら、いつものおかしな息継ぎもなしに「マーラーはこの曲がり角でときどき火事に出会う」とつぶやく。
グンゼビル
お堀端のこのビルは建物全体が回転しているので、窓からの風景がゆっくりと一方向に流れている。終電も過ぎ、曖昧になってしまった待ち合わせを諦めようか迷っていると、グンゼの広告撮影のため集められた少年少女たちが白いメリヤス下着に身を包み、階段の手すりあたりでたむろしはじめる。勃起がパンツを押し上げているのを見つけられてしまった少年を、少女たちは面白がって取り囲み、一人の少女が自分のパンツを下ろして見せる。
壁面がまるまる電子書籍になっている隣のビルに、ちょうど窓の方角が合うのはこれで三回目だ。本が巡ってくるまでの間に自動でめくられた数ページぶん、物語が抜け落ちてしまう。もう帰ろう、そう決心して一階の出口に降りてくると、回転する鉄製ステップの意外な速さに怖気づいて、なかなか外に出ることができない。
絵宿帳
海辺の高層ホテルに宿泊している。九階の部屋から一階のフロントまで降りてくると、恰幅のよい女性オーナーから宿帳を書くように言われる。今日までの分と明日以降出発予定日までの分を絵日記で記さなければならない。今日の夕方の予定は内緒なのでうやむやにしたいのだが、うやむやを描くための滲む画材が手元にない。絵で嘘をつくのは言葉で嘘をつくよりむずかしいから、とオーナーが言う。