rhizome: 遺失物

松脂イルミネーション

バス停の待合小屋で、隣に座っていた女が立ち去り際に忘れ物を残しているのに気づく。杉本くんが大声で呼び戻すと、女は感謝する風でもなく本を受け取る。「クンデラでしたね」と杉本くんが言う。足元を見ると巾着も落ちているので、あわててふたたび女を呼び戻すが、それは私のものではなく卒業した学生が放置したものだという。見れば小屋の窓の縁に同様の袋が無数に捨て置かれている。開けてみると細いやすりが何本か、松脂の粉にまみれている。
レジの外のベンチに腰かけていると、やすりの尖端で突いてくる男がいる。先端の黄色い松脂が僕の皮膚に入りこみ、盛り上がったぶんをやすりで平坦に仕上げるので、だんだん僕の皮膚が松脂に置き換わっていく。男は実家の隣で真鍮細工の家業を継いだマサミくんであった。このあたりは大開発が済んで地理がまったく変わってしまった。実際、スーパーマーケットの奥の店員用扉を開けると、コンクリートの森を隔ててマサミくんの家のそばに接続するのだそうだ。コンクリートの森には、光る線が残像のように埋め込まれている。これは何かときくと、松脂イルミネーションというイベントだと言う。Rが電話でいまどこにいるのか聞くので、たぶん実家の隣まで来ている、と言う。

(2017年9月12日)

遺失物袋

土でできたスタジアムのカルデラ外縁を歩きながら、すり鉢の中で遊んでいる子供たちが投げ上げたボールを拾う。投げ返すつもりが、外側の壁と道路の隙間に落としてしまう。狭い隙間に降りると、管理のおじさんたちから「安斎さん」という付箋をつけた袋を渡される。そこにはかつて自分が隙間に落としてしまった五百円玉などがたくさんつまっている。

(2016年5月15日)

藻類標本小屋

ぜひ見せたいものがある、と黒人の庭師に案内されたのは広い芝生の隅にある黒く塗られた小屋だった。持っていたノートを芝生に置き、上下に開くガラス窓を開けるのに手を貸すと、小屋の中にはさらにもうひとつ小屋がある。中の小屋から屋根を外すと、それは木の水槽だった。なみなみと張られた水はなぜか絶えず流れ、世界各地から集められた水藻が糸見本のようにたなびいている。集まってきた女子高校生たちが「わあ綺麗」と声をあげるが、暗く絡まり合う藻は美しいというより恐ろしい。
そろそろ講義が始まる時間なので、と言ってその場を離れるとノートがない。高校生のひとりが遺失物として届けたと言う。彼女に案内されて教務課に出向くと、薄い和紙をカットして作ったシールを受領証明としてノートに貼らなくてはならないと言う。安齋というアウトラインフォントの複雑な不要部分を剥がしながら、申し訳ないけれど授業が始まるからと、撚れた齋の字を無理やり手で押さえつけた。

(2013年8月23日)