プロコフィエフ作曲「圏外のための弦楽合奏曲」が、古民家の四階にある居酒屋で演奏される。卓に貼りつけてある解説シートには「楽譜に明示されていない和音を聞くための音楽」と題されたテキストと、アンテナの立っていない圏外マークが印刷されている。
黒光りする板の間で、黒服の奏者たちは車座になって演奏を初める。ヴィオラを弾く脳科学者は、ひとりだけ普段着のままだ。声をかけると、演奏のじゃまをするなと目配せで答える。
飲み屋の客たちは競って大声で会話するので、音楽が聞こえない。大声で逢引きする密会中の男女もいる。名刺大のレジ袋を差し出してきたプチプチの川上社長に、大げさな身振りでお礼をかえす。袋の中を見ると一万円札風のイラストが入っている。
ふとすべての会話が途切れ偶然訪れた数秒間の静寂に、弦の残響のような音楽が初めて聴こえた。
selection: すべての夢
3D印刷された競技場
空軍を退役しコックをしている私を、彼は二人乗りステルス機のパイロットとして雇い入れたいと申し出る。ホテルのフロントに、囚人服風のTシャツが届けられる。これを着ても、彼の思い通りになるつもりはない。その意思表示のため、私は三角形の小型機に彼を乗せ、ぎりぎり海面をかすめて飛び、ブロッコリーの内部を曲芸飛行で切り抜けた。ブロッコリーの森には、下草ブロッコリーの入れ子層があり、完成間近の国立競技場もそこに生えている。3Dプリンタによって不当に早く完成に近づく国立競技場を、私も彼も快く思っていない。その点で私と彼は、大いに意気投合している。
完成記念パーティーに出された酒のあとのご馳走は、陶器のオーブンで炊いた白いご飯だった。
日暮坂の群がり
日暮里の入り組んだ谷を登りつめると、怪しい人だかりが最後の坂道をふさいでいる。群がりを観察すると、それは数人の女を先頭にして、それぞれから延びる行列のもつれ合いだった。並んだ男たちは手に五百円玉を握りしめ、順番が回ってくるのを待っている。最前列の男が着衣のまま女の腹部に腰をこすりつけると、昆虫の交尾のように瞬く間に果てる。僕は連れの女とこの怪しい道を通り抜けたいのだが、なかなか前に進めない。そればかりか、じきに日が落ちてしまう日暮坂の夕景色を見ようと促しても、女はすっかりこの光景に目を奪われ、坂を登ろうとしない。
桜井さんの巻き髪
桜井さんの御嬢さんが二階の部屋にはじめてやってきたとき、僕の布団にはたくさんのネジがばら撒かれていた。あわててネジをまとめて容器に片づけてしまい、時間をかけた分類作業をいっきに無にしてしまう。機械油に汚れた皺だらけのシーツの恥ずかしさに動揺しつつ、ふと目に入ったこの人のうなじは見事な巻き毛だった。
貴腐チーズの知恵
石神井川から江古田の城へ至る入り組んだ城壁の奥へ奥へと分け入り、ついに白カビに包まれた腐ったチーズを手に入れた。それは新しい言葉のように、なにかをうまく説明してくれる。しかし何を解決する概念なのかはよくわからない。腐りかけのチーズは絶品だけれどこれは限界を超えているかもしれないね、とチーズ好きの佐藤さんが言う。
僕は折り畳み式自動車を小脇に抱えて、ここから脱出する手立てを考えはじめる。小さすぎる自動車には片足しか入らず、アクセルにもブレーキにも足が届かない。城壁に縄をかけ、屋根伝いに脱出する道を模索しはじめると、チーズから浮き出た白い胞子嚢たちがいっせいに頭を振りはじめ、迷路問題を解決しようとしている。
粘土戦争
中華料理屋の二階に、粘土頭の侵略者たちが刻々と迫っている。僕は藍色の子供を抱いて、滑り台の浅い溝に身を隠している。仲間たちは京劇の楽器を鳴らして粘土頭たちを威嚇しはじめたが、しかしいずれは捕えられ、頭を粘土に挿げ替えられることを覚悟しはじめている。僕はその子供を連れて押入れの奥に逃げ込むが、粘土頭の王(わん)さんに見つかり、私はあなたがたをかくまうから声を出さないでそこにいるように、私はみんなからお父さんとよばれているから、と言われる。
数年の後、久しぶりに藍色の子供が声を出すと、遠くから「その声は民枝か」という夏ばっぱの声が返ってくる。中華料理屋のテラスでは、粘土頭と講和を結んだ首相を仲間たちが囲み、不平等条約を糾弾する声をあげる者もいる。
振り子合唱団
変ロ長調に紫色を見るという共感覚の男が、天井から吊られた二つの大振り子が交互に振れる階段で、ふたつの重りに抓まれるように紫色の頭部を掬い取られる。階段教室で僕は合唱コンクールの課題曲である「うみゆかば」が歌いだせない。アルトの吉田さんの口元を見ると「いろはうた」を歌っている。
バイオアート
久保田晃弘さんの講義に遅刻して潜入し、空いている最前列の長机に座ると、いきなりビーカーに入ったオタマジャクシ状の塊を渡され、コンピューター内の変換表によって蛙にする方法を考えろ、という課題を出される。隣に座った二人の女子はリス語で相談を始めたので、それを真似て会話に混じろうとすると、豚肉を食べてる人はどうしても発音が濁る、と言われる。
ガラスアイコン
宮原さん最近どうしてる?と訊かれて、TwitterやFacebookで宮原美佳を検索するが、エリアごとに違う検索をするのが面倒なので、宮原さんをガラスキューブに置き換えて各SNSに配置することにした。ガラス面に描かれたエナメル絵具の顔は、厚く塗り過ぎて顔に見えない。「ガラス絵は裏面から見ないとだめですよ」という宮原さん自身のコメントがガラス面についた。
貨幣論
草原さんの代役で小学校の教壇に立つと、机の面が自分の背よりも高く、小学生の顔を見るためにいちいち懸垂しなくてはならない。初回の授業なのにゲストで呼んだ物理学者を紹介しなくてはならず、いきなりそれはないだろうということで生徒に「力(ちから)ってなんだろう」と質問を投げかけてみると、小さい丸眼鏡のイルカが「相手の気持を考えないでも物々交換ができる仕組み」だと答える。
カツオの身投げ
デパート屋上にある側溝を猛スピードで駆け廻っているカツオが、勢い余ってフェンスを乗り越えそうになる。網の上端で危うく堪えている魚を救出しようか迷っているうちに、カツオはしだいに外側へ傾き、駅前広場めがけて落下していく。
外食街道
パサージュのガラス屋根直下でごろごろしている家族を招集し、外食に出かける。広い街道が分岐するあたりで、いくつかの中央分離帯にわかれて食事を始めると、幅広の冷凍車が停車し、向こうの卓のおかずに手がのばせない。そこで停まられてはとても迷惑だ。
縄文式寺院
洪水にのまれた寺院の修復をしている。天井から吊るされた天体を、屋上のハンドルを回して動かし、日蝕を作っていると、従姉の娘たちである洋子と文子が遊びに来て、ここで縄文時代の生活をしたいと言い張る。現代の食器を使わないでメシを食うのは、一度ならいいけれどずっとは嫌だよ、と言うのを聞いているのかいないのか、この子たちは瓦礫から集めた仏像を燃やして土器を作りはじめた。
牛落とし
押すように雨の降る安達太良山中で、竹の姿をした二頭の牛を導き、いっきに駆け下りようとする途中、一頭は脱落して見失い、もう一頭は急な段差に怖気づき固まってしまう。もう先頭を争うこともないから、と優しく肩を貸してやると、竹は肩に足をかけて奮い立ち、阿武隈川を目指して駆け下りていった。
棚田温泉
一人用の風呂桶が棚田のように配置された温泉で、どれに入ろうか迷っている。高い浴槽からあふれた湯が次の浴槽に流れ込むので、無造作に並んだ湯船の連鎖反応を読まないと他人の迷惑になるからだ。段々の谷間でひっそりと湯に浸かっている老人が、実は名手であることを脱衣場の噂話で知った。なんの名手だったかは、衣服を脱いだ今となってはわからない。対岸の棚田で、体毛を剃りながらふと目の合ったまりこさんが、にこやかに手を振っている。