rhizome: 広場

昆虫食の妖精

近所一帯が、万博会場になる。空き地がないので、民家の屋根より高いところに広大な板張り広場が設置される。おかげで、自分の部屋の窓からひょいと軒を伝って万博広場に出ることができる。昼寝をしていると、布団の傍らで大西瞳とパニックさんが万博企画の打ち合わせをしている。
万博広場にはところどころ桟橋がある。はるか眼下に、地上の池が見える。ケータイを見ながら歩いていると、気づかぬうちに欄干のない狭い橋を歩いている。
板張り広場から池に降りる螺旋階段に、羽虫を口に吸いこむ女の子がいる。彼女は妖精のようだが、昆虫食はこの万博のテーマでもあり、だから彼女はコンパニオンの制服を着ている。コンパニオンの妖精は交尾中の赤い糸トンボの片方をすっと吸いながら、もう片方のトンボを吸ってみないかと僕に勧める。ためらっていると「これはツナの味がするから」と言う。

(2014年1月29日)

「か」の星座

駅の北口広場を飲み込むほどの湖に、船の丸窓と思しき部品が浮遊している。汚れたガラスにひらがなの「か」の文字が書かれているが、僕はそれを日本語の「か」として読むことを禁止されている。日本語を知らない異国人が「か」を形として見るように「か」を見なくてはならない。丸窓は浮き沈みしながら瓦礫とともに漂い、「か」は人の体になり、「か」はまた動物の顔にもなるが、気を緩めるとふとひらがなの「か」に落ちてしまう。

(2013年5月23日)

象の木

今日は部屋にこもって先生の遺品を整理するつもりだ、と彼女に伝える。彼女はメッシュのバッグにケータイを入れて、外出の準備はすっかり整っているのに、なかなか出かけようとしない。僕は薄紙に書かれた手紙をスキャンするために、スキャンスナップを探している。古いタイプライターなど、紙を吸い込む機械はいくつもあるのに、スキャナだけみつからない。何日かけてもこの部屋が整理しきれるとは思えないのだ、と女に言う。もしかすると、これは自分の遺品なのかもしれない、とも。
薄い化繊は重ねて着ると肌触りがいい、と女が言うので、僕は確認のために両方の掌を彼女の表面にこすり合わせ、いつのまにか女の体つきや匂いをまさぐりはじめたところに、この部屋を買いたいという一行がやってきて、ひどくがっかりする。

街はずれにある矩形の空き地まで、日暮れ方向に延びる道へ自転車で漕ぎ出し、例の不動産見学ご一行を追い越し、彼らより先に広場にたどり着くことができた。広大なその区画だけ白い光に満ちていて、野球少年たちがスローモーション撮影のようにボールを投げあっている。
巨木の切り株の形をした動物が何頭も、あちこち揺れながら佇んでいる。空き地に柵がないのは、彼らがおとなしい動物だからだろう。そのうちのひとつが、切り株上部の茂みの奥から象の小さな目をこちらに向けると、四つ足らしき下部の枝分かれを轟かせながら駆け寄ってくる。野球少年たちは動じず投球を続けている。僕は動物の駆け足の遅さと、そこからわかる動物の大きさにたじろいでしまう。

(2013年2月13日)

テクスチャーマッピング

鉄道警察は広大な吹き抜けのある建物の九階にあり、改札でカードを入れ間違えたことをさんざん詰問されたあとで、さて九階から一階をストレートにつなぐ長いエスカレーターを降りようか、あるいは撮影しながらじっくり階段を降りようか迷っている。
九階ホールには浅く水の溜まった窪地があり、そこを通過する人の上半分が、黒ゴマ豆腐の質感にテクスチャーマッピングされる。自分もその窪地に入ってみると、周囲の人が憐みの混じった奇異の目を向けるので、自分も同じように黒ゴマ豆腐化して見えていることを理解する。いや僕が可哀そうではなく、これは解釈の問題、見る側の問題なのだ、と反駁したいが石化した神話の人物のように声が出ない。
四階広場で、結婚を約束したnanayoさんが鏡に向かって髪を梳っている。これから僕の親に会うために、髪のある高さの一周だけ細かいパーマをかけている。それはきっと僕の親には理解されないだろう、と彼女に言う。

(2010年2月6日)

昆虫進化広場

古本屋のある坂を下ると、草もない空き地のそこここに子供たちが集い、カナブンを集めている。昆虫は煙のように舞い上がり、空中交尾のたびにワニぐちのゴキブリなどに進化する。子供たちは昆虫の発する化学物質を記録していて、夕暮の広場でパワポのプレゼンをしては、歓声をあげている。

(2009年12月30日)

廃屋火事

地面を這うように自生した金木犀の草には、橙色をした拳大の巨大な花がびっちりついている。薔薇の花を育てている小学生たちや、金木犀の写真を撮っている青年など、路地裏の人々がゆっくり時間を過ごすなか、観光客のように歩いている僕とRは異質なよそ者だ。しかもRが薔薇の花を一輪手折ってしまうので、僕は小学生たちの視線が気が気でない。
広場の縁にある二階建ての廃屋から火が出ている。上手に焼けてしまえば解体する費用が浮くので、持ち主にとっては好都合なのだろうと思いながら眺めていると、二階部分に溜まった大量の水がいっきに溢れ出して火を消してしまう。二階の窓から覗いている人形のなまめかしい首を撮りに行こうとRが言う。火事があった部屋とは思えないまっさらな畳の部屋に寝転びながら写真を撮っていると、僕のカメラはメカ部分が壊れてしまう。Rが自分のデジタルカメラから不要のカットを一枚取り出して捨てると、ポジフィルムには人形の全身が写っている。

(2006年10月6日)

木造合宿

高層の日本家屋は、築何十年になるのか誰も覚えていないほど年季が入っていて、あちこちの軋みが繰り上がって最上階に集まってくる。窓を開けると、はるか地上の広場に駐車してあるはずの車が、目の高さの蜃気楼として見え、薄もやに僕自身のブロッケン現象が影と虹を落としている。

夜の宴会で、ひとりだけ浴衣に着替えた茂木健一郎となにやら話をする。彼は、窓を十センチくらい開けて小便をしている。寝床に帰ろうと最上階の部屋へ行くと、部屋割りとは関係なく布団が敷いてあり、僕の部屋には大人用と子供用の布団が一枚ずつ。これは、どこかの家族に割り当てられたに違いない、と確信するが、子供用の布団にはすでにNHKの背の小さい人が潜り込んでいる。いくら小さくてもそこに寝てしまっては困る家族がいるのではないか。

(2005年12月23日)

架空階段

夜の干潟に佐々木が繰り出していることをラジオで知った。彼は、おこぜや小さい蟹などを獲りながら、どうせなら夜が明けるまで獲り続けようと思っている。その思考内容は、薄明の電波に乗って世界に筒抜けになっている。
僕は偶然を装って、どんより鈍色の朝の浜で彼に合流した。毛の生えた小さい蟹と引き換えに野菜をくれるおばさんは、浜には長い時間いるけれど、野菜を採るのに忙しくて蟹まで手がまわらないものだからと、なぜかしきりに弁解する。
砂浜の行く手に竜巻が三本、色違いの尻尾をいまにも地上に届かせようとしている。伏せたボートの中で写真を撮ろうと待ちかまえている連中がいる。無知ほど恐ろしいものはない。僕は竜巻映画を見ているので、巻き込まれたら命がないことをよく知っている。

気まぐれな竜巻の動きを注意深く見定めながら、階段や吊り橋や稜線を伝って登山口にたどり着く。竜巻を逃れて山に登るのは、これが初めてではない。いやそれは、かつて女と付き合いを深めていった過程と比喩的に相似なだけかもしれない。
標高千メートルを越えるあたりで、ある説明を思いつく。仮に一辺が1メートルの立方体の石を、画素のように階段状にずらして並べると、千画素目の石が標高千メートルである、と。すると比喩はそのまま実景になり、標高ゼロメートルからはるか上空千個目の石に、僕は震えながらへばりついている。

(2004年3月16日)

色鉛筆の通路

駅前広場を出て道を左に折れると、機械油を吸い込んだ灰色の壁が延々と隣駅まで連なっている。この道は現在もあるが、こんな無彩色ではない。景色が単純で灰色なのは、今歩いている道が子供のころの道だからだ。
子供のころの道を歩きながら、ふと思い出した抜け道に分け入ると、そこは土砂や建築資材をうずたかく積み上げた場所で、登っていくと友達の父親が経営している工場の門があらわれる。
友達がくれた工場の見取り図には、坂の下までいっきに降りる土管が書かれている。子供のころは通り抜けるのがなんでもなかったその図面上の土管を、僕は白い色鉛筆を使って何度もなぞっている。こうしておけば、色鉛筆が蝋のように滑って体がつかえてしまうこともない。

(1999年1月15日)

探すために探す自転車

久しぶりに出会ったprotonとは話すべきことが限り無くあるのに、pは携帯電話で母親に九時に帰る約束をしてしまった。もう時間がない。家に送りながら夢中で話しているうちに、ふと西池袋界隈でpを見失ってしまう。
僕は夢中でpを探し始めるのだが、pを探すための自転車を探さなくてはならない。なかなか駅前の自転車置き場にたどり着けない。ガクランを着た大男が振り返りざま、この道を誰の許可を得て歩いているのかと凄む。そういえば昔、西口公園に自転車を乗り捨てたことがある。行ってみると、意外にも放置されたままの自転車を見つけ、試しに乗ってみると前輪がどこかに擦れて動かないのは昔のままだ。ボルトを外して組み立て直すと、見事に動きはじめた。
これに乗ってpを探しはじめることができる。達成感に満たされながら、人影も疎らな夜の街をあてどなくただ走っている。

(1997年3月3日)