rhizome: 抜け道

松脂イルミネーション

バス停の待合小屋で、隣に座っていた女が立ち去り際に忘れ物を残しているのに気づく。杉本くんが大声で呼び戻すと、女は感謝する風でもなく本を受け取る。「クンデラでしたね」と杉本くんが言う。足元を見ると巾着も落ちているので、あわててふたたび女を呼び戻すが、それは私のものではなく卒業した学生が放置したものだという。見れば小屋の窓の縁に同様の袋が無数に捨て置かれている。開けてみると細いやすりが何本か、松脂の粉にまみれている。
レジの外のベンチに腰かけていると、やすりの尖端で突いてくる男がいる。先端の黄色い松脂が僕の皮膚に入りこみ、盛り上がったぶんをやすりで平坦に仕上げるので、だんだん僕の皮膚が松脂に置き換わっていく。男は実家の隣で真鍮細工の家業を継いだマサミくんであった。このあたりは大開発が済んで地理がまったく変わってしまった。実際、スーパーマーケットの奥の店員用扉を開けると、コンクリートの森を隔ててマサミくんの家のそばに接続するのだそうだ。コンクリートの森には、光る線が残像のように埋め込まれている。これは何かときくと、松脂イルミネーションというイベントだと言う。Rが電話でいまどこにいるのか聞くので、たぶん実家の隣まで来ている、と言う。

(2017年9月12日)

ずるいジョージ・クルーニー

大人たちが帰ってきたので、あわてて裸の下半身を炬燵の中に隠した。少女の柔らかい感触が足にからみつきながら炬燵の中でなんとかタイツを履くことができた。帰ろうとする少女を大人たちが引きとめている。こうやって長い時間置いておけば、動物とおなじで番(つがい)になるから、と大人たちが影でささやいているのが聞こえる。
階段を上って二階の自分の部屋へ上がると、初めてみる3階への階段がある。登ってみると薄い板がきしむ。安い木を使うとこういうことになる。カウンター席も同じ素材でニス仕上げも安っぽい。なんで大人は一割の差をケチるのか。
3階の奥から階段を降りると、ジョージ・クルーニーが製図器具を売っている。烏口のコンパスは3万円のところ千円に割引くという。仕上げの美しさに心が動くが、この先これに墨を入れて使うことはまずない。別の棚にある十字の溝を彫ったドライバーを見ていると、その間にジョージは製図器具一式を包んで合計7万円の請求書を書いている。冗談じゃないどいつもこいつもずるすぎると言ってその場を去る。
地下のスタジオは天井が背丈ほどしかない。地下を伝って別の建物に抜けることができるのを知っているので、警備員に不審がられないように平静を装い、つきあたりまでくると、たくさん子供たちが群らがり、ひとりの赤ん坊に卵ごはんを食べさせている。箸の先端は危ないので、反対側を使い上手に口に入れると、赤子はミンチマシンの入口のように滑らかに吸い込んでいく。

(2015年12月5日)

色鉛筆の通路

駅前広場を出て道を左に折れると、機械油を吸い込んだ灰色の壁が延々と隣駅まで連なっている。この道は現在もあるが、こんな無彩色ではない。景色が単純で灰色なのは、今歩いている道が子供のころの道だからだ。
子供のころの道を歩きながら、ふと思い出した抜け道に分け入ると、そこは土砂や建築資材をうずたかく積み上げた場所で、登っていくと友達の父親が経営している工場の門があらわれる。
友達がくれた工場の見取り図には、坂の下までいっきに降りる土管が書かれている。子供のころは通り抜けるのがなんでもなかったその図面上の土管を、僕は白い色鉛筆を使って何度もなぞっている。こうしておけば、色鉛筆が蝋のように滑って体がつかえてしまうこともない。

(1999年1月15日)