生まれて数日の、毛のふさふさした犬。彼といっしょに火のついた食事をしていると、火が彼の毛に燃え移って一瞬火だるまになってしまう。やけどを負った彼を抱いて眠る。
rhizome: 犬
死者と宴会
ともに仕事をしていた会社側のプロジェクトリーダーが突然亡くなり、死んだ彼と飲みにいくことになる。道すがら彼は、コンクリートの角材を線路沿いの鉄柱に持ち上げる作業など、生前にやりかけた仕事をしている。彼はなぜか終始にこやかだ。広い宴会場で、僕は母親の膝の間に身を沈めている。Hが家族とともに来ている。彼も、もうすぐ死ぬのだと言う。僕は死に意味がないことを説くために、世界は数であり、あらかじめ計算ができる数に時間はない、などと言っている。Hは、気休めはいいから、と笑う。Hの二人の娘に、近所だからこれからも仲良くしようと言う。鉄道の操車場を自転車で走る男がいて、いっしょに駆けまわるHの二匹の犬たちの黒毛はびっしょりと汗に濡れ、冷えたあばらを触ると激しく呼吸している。神保町にある彼の図書館から、布ザックいっぱいの廃棄本を回収する。琳派の豪華本やガロのカタログなどがある。図書館から隣の工務店にするりと入ってしまうが、工務店から図書館へは壁があって戻れない。大きいザックを自転車の籠に入れて運ぼうとするが、膨大な積荷を自転車で運ぶ力学を解説した本があり、そこには家一軒もある大きさの荷物を引く自転車が、神保町の交差点を巧みに曲がる動画が付属している。大きな荷物に張り付いた何人かの男が、倒れそうな方向と反対側に重心を傾け、バランスを保っている。
手綱つきバス
上板橋と常盤台の間に、廃棄物処分場予定地がある。長い間空き地になったままのこの場所をバスが走っている。男が地面にコンクリートを流し込んでいる。彼は計画のはじめからかかわっている都の職員で、何度かここで顔を見たことがある。
ぬかるんだ細長い空き地をゆっくり走りながら、バスは自分自身を小型化していく。ついにデスクトップPCの大きさにまでなると、僕はキャスター付きデスクトップパソコンに犬の手綱をつけ、PCケース上面にまたがる。これでは一人しか乗れないので、同乗していた連れはいつのまにか歩いている。そっちのほうがバスよりずっと速い。
蛇行しながらようやく到着した常盤台のガレージで、待ち構えていた都の職員にバスを引き渡すと、彼らはバス内部に詰まった空中配線に空気を吹き付け、たまった埃を掃き出した。
常盤台の商店街で、芋菓子屋の暖簾をくぐると、ばったり泉に出くわした。ここで偶然出会うのはこれで二度目だ。
白砂ケーキ
崖を見上げると、斜面の岩を切り出した巨大な時計が見える。時計の側面には、子供のころ寝床から見上げた真鍮製の置時計と同じレリーフが彫ってある。あの丘の上の店を目指して歩いていけばいいのだ。店にはNTTの大和田さんがすでに到着している。テーブルには、シフォンケーキ型で抜かれた濡れた白砂がきっちり形をとどめている。ソフトバンクの犬のCMの演劇性について語りあいながら、白い砂を少しずつ掻き出す。こんな無駄な砂を入れていたからいつも鞄が重たかったのだ、と大和田さんが言う。
実験ハウス
居酒屋の二階で、新田君はブルドッグのようにたっぷりとした顎を床板に乗せ、体を冷やしている。彼が結婚したことを母から聞いていたので、新居はどこか尋ねると、城北高校の近くだと言う。その場所はよく知っているよ。
新しい家のいちばん奥の部屋には、壁に塗りこめられた螺旋階段があり、それは各階につながっているので、ときおり上下の住人が行き来するのが見え、部屋に紛れこんでくることさえあると言う。設計者はプライバシー感覚の革新を狙っているのだが、思想が壁に塗りこんである家に住むのはごめんだね、と新田君が言う。
坂道の祝典
本当は行きたくない気分を押して式典にやって来た。しかしそこに会場はなく、朱色の橋の上、石垣の前、細く蛇行した坂道など、来賓が思い思いの場所に陣取って挨拶をしている。これはいい。うまいやり方だ。この形式なら知事の演説をパスできて都合がよい。
坂を登りきったところで、居眠りが襲ってくる。犬を連れた女が、いつの間にか添い寝をしている。犬は僕によくなついている。飼い主の女が誰で、女になついてよいものか、それがよくわからない。
長い縦の坂道に短い横路が渡されたあみだくじ状の坂道を、高速に駆け抜ける一団がある。走ること自体を目的にしたこのゲームの首謀者に、商売のじゃまだからやめろと店の主人がケータイで抗議している。しかし路地の隙間を走り抜けるぶれた人影ははっとするほど美しいので、むしろ観光資源になるはずだ。この町に集う人たちは、荷物をそこここに投げ出して走り回っている。志を同じくする人たちは、互いに信頼し合っている。ここはそういう美しい町だ。
無造作に累積した荷物の中から、自分の古びた鞄を探し出すと、中にカメラがない。よくなくすね、と小林龍生さんに言われる。「いやなくしたことはない、捨てたことがあるだけだ」と悔しまぎれに反論する。
輪読会の犬
土の露出したグラウンドで、マグカップに書かれた文庫本を輪読するゼミに出席している。青土社から出ているこの陶製の本は、注釈の小さい文字が円筒の表面にびっちり書かれている。輪読に参加している華奢な体の女が、小型犬に頭から飲まれてしまう。胸まで引き込まれた身体をやっとのことで引きずり出すと、苦しそうな女は透明な粘液にくるまれていて、このままでは窒息してしまうだろう。服をはだけた女の胸は子供のようで、やや膨らんだ乳首をぬぐうと、掌にあばら骨を感じる。
僕の賢い黒い犬
僕の賢い黒い犬は、すぐに食べてしまいたい肉の塊をくわえて、白い犬に与える役割を担っている。黒い犬は、飲み込んでしまいたい衝動をおさえながら白い犬の口の近くまで肉をもっていくと、頭の悪い白い犬は黒い犬の口ごと噛みつき、肉を奪おうとする。黒い犬の口には、白い犬の噛み痕がつき血がにじんでいるが、黒い犬はなんとかこの困難な仕事を成し遂げようとしている。
砂のなかの糞
砂の入った紙袋をさげ、僕は西に行こうか東に行こうか迷っている。砂は、乾いた犬の糞を包んでいる。間違って排泄してしまった瞬間の気まずさや、誰かに見られていないかしきりに振り返ったこと、すとんと紙袋に入ってしまった偶然に驚いたことなどが生生しい記憶にあるのは、これは犬のものではなく自分のものだったからかもしれないし、自分が犬だったのかもしれない。
忽然と思い出したのは、昔がっちゃんという中学の同級生と住んでいた部屋がそのまま残っていることで、西に歩いていくとそこにたどりつけるはずだ。しかし、それが自分のことだという確信がもてないのは、がっちゃんと過ごした記憶がまったくないからだ。すでに廃屋になってしまっているかもしれない怖さもあって、西に西に歩いてもなかなかたどり着こうとしない。
この際、紙袋はトイレに廃棄したほうがよいと思い直して、駅ビルの電気店に入るが、階段の上から俯瞰する迷路のようなトイレの区画には、それぞれ人の頭が見えて空きがない。
しかたなく東に歩く。海岸に出ると、砂に埋まった男の腿の付け根を踏みつけてしまい、平謝りして事なきを得る。塩分濃度の高さのあまり、ほとんど樹脂のようになっている海の中に歩いて入っていく人に連なり、目の高さが海面になったときに、口の中のあまりの塩気に驚きながら、手に提げていた紙袋がいつのまにかなくなっていることに気づいた。これでよかったのだと、心の底から安堵する。
犬の兄貴たち
藤枝守さんと野菜を育てる話をしていると、階下にジャニーズ系グループの少年たちが集まっている。近くでキャンプをしていたらキャベツがないことに気づいたので、借りにきたのだと言う。キャベツを借りにくるという奇妙な行動には感心するが、しかし借りるなら返してほしい、と言う。
小さい愛犬とともに、少年らを送りに出る。途中で愛犬の鼻先に手を置くと犬は眠ってしまう。いっしょに路上に寝ころんで、すっかり犬が寝付いてしまうのを見届けてから彼らは帰っていった。目覚めた犬と手をつないで帰る道すがら、男の子たちが帰ってしまったことに落胆する犬の話を聞いてやった。彼は、ああいうとびきり悪い兄貴がほしかったのだと言う。
いやな釣人
パイナップルの山だ。異国の女たちが群がっている。そこには、何種類かのパイナップルがある。「端的にどれを選べばいいのか教えて欲しいんだ」と言う僕の問いに快く答えてくれた女に、あやうく惚れそうになった。
そこいら中の人が、祭りに沸いている。目の前をビュンと音をたてて、釣り糸が飛び交い、ファンファーレが鳴る。裸の少年たちが並んで、ペニスをラッパの角度に勃起させている。いちばん右側の一人だけは、いっこうに立たない。彼はあきらめたのか、ひゅるひゅると音をたててペニスを体の中に格納してしまった。
釣針は、かなり遠方にいる犬の口から、犬のくわえていた食い物を奪い取る。食い物は僕の目の前をよぎって、釣人の手元まで引き寄せられる。釣人は得意げだが、それに飽き足らないのか、犬のかわりに小学校の教室にいる一人の女の子の口から何かを釣り上げたいと言う。いやな奴だ。僕は彼に、ウイリアムテルかロビンフッドを例にあげて抗議する。その両者の区別が、ときどき危うくなる。息子の頭に載せたリンゴを射抜くにしても、そこにはかなりの信頼関係がないといけないわけで、見ず知らずのおじさんに、女の子がそんなことを許すわけないじゃないか!
いつのまにか、釣人は白いあご髭をたくわえている。彼は片手の親指と人差し指を使って、髭の輪郭に波形を描いてみせる。すると、髭のエッジが青く染まる。手のしぐさだけでそうやって幻覚を引き起こそうっていうのなら、僕だってこうしてやろう。僕は、髪をおもいきり前から後ろに振り上げると、歌舞伎役者の隈取りの幻覚を引き起こすことができたようだ。こいつにだけは、負けるわけにはいかないのだ。ともかく、いやなやつなのだ。