rhizome: 死者と会話

死者と宴会

ともに仕事をしていた会社側のプロジェクトリーダーが突然亡くなり、死んだ彼と飲みにいくことになる。道すがら彼は、コンクリートの角材を線路沿いの鉄柱に持ち上げる作業など、生前にやりかけた仕事をしている。彼はなぜか終始にこやかだ。広い宴会場で、僕は母親の膝の間に身を沈めている。Hが家族とともに来ている。彼も、もうすぐ死ぬのだと言う。僕は死に意味がないことを説くために、世界は数であり、あらかじめ計算ができる数に時間はない、などと言っている。Hは、気休めはいいから、と笑う。Hの二人の娘に、近所だからこれからも仲良くしようと言う。鉄道の操車場を自転車で走る男がいて、いっしょに駆けまわるHの二匹の犬たちの黒毛はびっしょりと汗に濡れ、冷えたあばらを触ると激しく呼吸している。神保町にある彼の図書館から、布ザックいっぱいの廃棄本を回収する。琳派の豪華本やガロのカタログなどがある。図書館から隣の工務店にするりと入ってしまうが、工務店から図書館へは壁があって戻れない。大きいザックを自転車の籠に入れて運ぼうとするが、膨大な積荷を自転車で運ぶ力学を解説した本があり、そこには家一軒もある大きさの荷物を引く自転車が、神保町の交差点を巧みに曲がる動画が付属している。大きな荷物に張り付いた何人かの男が、倒れそうな方向と反対側に重心を傾け、バランスを保っている。

(2015年3月19日)

石棺の女

駒込の交差点は、車両を通行止めにしているせいかいつもより広々と感じられる。そこに儀式めいた黒い車や、霊柩車、テレビの中継車などがゆっくりと横切っていく。人の歩く速度の車列についていくように歩いているのだが、道筋はまるで廃品回収の車のようにあてどもない。テレビのモニターに映る自分の服装は、性器のあたりだけうっすら黒々と透けていて、作者の意図を重んじてそのまま放映しています、というテロップが重なっている。死んだ女性は何とか皇子といった名だが、そんな名前だったのか、もっと普通の名前ではなかったのか、と混乱しながら、一足先に彼女の家に行ってみることにする。彼女がいったい誰だったかはっきり思い出せないのは、自分の脳の連続性がおかしくなっているのだと思う。しかも目の前の女は生きていて、よしよしどうした、何しよう、まずご飯を食べようか、などと狼狽する僕をなだめてくれる。僕は平静を装いながらも、いま一番したいのは食事ではなく体をぴったりくっつけることだと言うのだが、相手の体は視界になく、体と体の組み合わせ方をいくら考えても、対象が四角い石棺になってしまい、頭の中で形が組み合わないのは自分の脳のせいだと思う。つい口にしてしまう「死ぬのって時間かかった?」という問いに「そうねぇそんなでもなかったよ」と答えた女は、死んだことが確定したとたんに顔がSamになり、涙と苦しさがとめどなくこみあげてきてどうにも止まらなくなってしまう。

(2003年7月9日)

変な葬式

S子が死んで、僕は葬式に駆けつけたのだが、どうやらこの世界は普段僕らが慣れ親しんでいる世界とは違うようだ。たくさんの友人に混じって、S子自身もいるのだ。S子は、これから死ぬのだと言っている。「もう時間がないけど、もうちょっとみんなといっしょに居たいから…」
僕は、林耕馬とインターネットの話などをしている。そんなことをしていていいのだろうか。僕はS子と話がしたい。「でもね、ほかにもS子と居たい友人はたくさんいるんだから、ここはひとつ遠慮しておくべきじゃないの?」と耕馬が言う。それもそうだ、その通りだ。
いよいよS子は死んでしまうのだ。僕は彼女と手をつないで、彼女が入ろうとしている壊れかけた木戸の方に向かって歩きはじめる。いたたまれない気持になっている。こんな悲しいことがあるものか。友人への遠慮なんてどうでもいいじゃないかと思い、S子を抱きすくめてキスをすると、S子はいきなり舌を入れてくる。S子とは長い付き合いになるが、キスをするのはこれがはじめてだ。もうセックスする時間もないのに、どうしてこんな土壇場になってこうなってしまうのだ。これから死ぬ女と、舌を絡ませたりしていていいのだろうか。

(1997年1月7日)