いよいよ更衣室に入ると、風呂場のように「男」「女」と書いてある。木の床が黒光りしている。誰もいない。
着替えたあとで、小便をしようと立ち寄ったトイレの傍で、真面目そうな女が宛て名書きの代筆をやっている。文字に曲線がない。機械のように直線を組み合わせて文字を書いている。
「いつかお願いするかもしれない」と言うと彼女は、
「文字の中心がずれないように薄く鉛筆で線を書いてしまいますけど、いいですか?」
僕は一瞬迷いながら、
「今度是非お願いする」と言う。
selection: すべての夢
鮭の手掴み場
そこは意外なほど近所なのに、いままで見たことのない谷あいの暗い道沿いある。有刺鉄線で囲まれた釣り堀に鮭が放流されていて、手掴みで鮭をつかまえる人で賑わっている。
僕はそこに鮭を捕りに来た。もうずいぶん遅い時間で、客はどんどん帰っていく。僕は水深が気になっている。係のおじさんが二人、運転免許証があるか、とたずねる。僕は免許をもっていない。今日はしかたないから入れてあげよう。
彼らはなにかを待っていて、それが来るまで僕は入れてもらえない。彼らと世間話をするのが、しだいに苦痛になっている。しかし愛想を保ちながら、彼らが堀の内面に作った透明な壁の話などを、感心しながら聞いている。どんどん暗くなって、どんどん客が少なくなる。
海外に通じる階段
草原真知子さんが「いい道をみつけた」と言うので、彼女に案内されるまま地下へ続く階段までやって来た。地下へ降りる階段にしては、底の方が妙に明るい。
階段は表面の木がほとんど見えないくらい一面に本が積み上げられていて、それが草原さんの収集した本であることはすぐにわかる。
「これじゃ通れないわね」と、彼女が積まれた本を押し倒すと、本の山は別の山を崩しながらどどっと地下のほうに崩れ落ちていく。
ほとんど本でできたその階段を這いつくばって降りていくと、北欧のとある集会所にたどり着く。こんな方法で簡単に来られでもしないと、しょっちゅう海外に出るお金もないわよ、と草原さんが言う。
北欧の集会所で、僕らは何人かの知り合いと話している。まったく言葉の通じない初老の男(彼はエルキ・フータモのように睫毛が白く瞳の色が薄い)が、まったくこちらの目を見ないで話しかけてくる。彼は、僕のことをよく知っているらしい。
わかりやすい英語をしゃべる若い男が差し出す本を開くと、中に日本語がまじっている。しかし、その日本語らしきものが解読できない。「チンプンカンプン」と僕はおどけて叫ぶと、その若い男はさも意味が通じたかのように高らかに笑う。チンプンカンプンの意味もチンプンカンプンであるはずなのに。
同じ階段を昇って、帰ろうとする。しかし本はますます雑然と増殖していて、ほとんど頭が通るか通らないかほどに狭まっている。無理矢理通ろうとすると、体のあちこちを擦りむいてひりひりする。
やむなく僕は、ドイツをめざして階段を降りはじめる。それは果てしない螺旋階段。僕は急がねばならないので、もう足をつかって駆け下りる時間はない。階段の手摺を滑り降り、ついにはお尻も離し、両方の掌だけで滑り落ちていく。途中、何人かの男を蹴落としてしまったかもしれない。
階段の果てには、座敷に膳が用意された薄暗い店がある。そこはまだドイツではない。しかしそこで食事をしないと、先に進むことができない。急ぎながら喉に流し込んだ液体が、信じられないくらい旨い。
太った巫女
スパイが暗躍する町の、大きな中庭のある建物に入っていく。誰もいない空間なのだが、たくさんの人の気配がある。
この建物には、異様に太った女の祈祷師がいる。彼女の祭壇のある部屋に、突然入りこんでしまった。彼女は闖入者の気配に動じることもなく、自分の小陰唇の皺の形で占いをしている。
地震が見える
地震が来る前に、地震が遠くからきらきらと光って、津波のように迫ってくるのが見える。そのことを、友人に一所懸命説明している。
鶏が降る
バスに乗っている。台風が去ったあとの真っ青の空。突然、空からばたばたと音をたてて白いものが降ってくる。なにかと思って外に出る。無数の鶏が、空から落ちてくる。
葉脈状の樹
東武東上線の上板橋と常盤台の間に、教会がある。その教会の前に立って線路の方向を見ると、ポプラのように背の高い樹がある。その樹は葉脈の形をしていて、教会の方から見ると樹形だが、横から見ると薄くて樹には見えない。
その樹を見ようと、上板橋から常盤台に向かって歩くのだか、なぜか樹を発見する前に駅についてしまう。何度往復しても、樹が発見できない。ふと右の掌をみると、いままで黒子だと思っていたものが葉脈状に広がっている。ああここにあったのか、と納得する。