武蔵野美術大学基礎デザイン学科 2016年9月17日
・正面の写真だけで伝わらない部分は、角度や光線を変えた撮影で補いました。
・解題や名前の表示などに変更があれば申し出てください。
「ぬ」の心をとらえよ
地球外生命との芸術交流始まる
政府は22日、箱根山中に飛来し20年になる地球外由来物体「ぬ」に対し、芸術交流の実施を開始すると発表した。
2010年10月に飛来した物体「ぬ」は、国際調査チームによる非接触的内部探索により「地球外の知的生命ないしそれによるアーティフィシャル・インテリジェンス」であると結論づけられている。「ぬ」がハッキングしたとみられるインターネットを介するわずかな入出力の痕跡を除いて、飛来以来大きな変化のないまま20年が過ぎようとしている。
政府の諮問機関である「通称ぬとの接触に関する特別委員会」が一昨年まとめた意見書は、いかなる異文化も最初のコンタクトは芸術であるのが望ましいとの判断を示した。政府対策本部はこの答申を受け、今年度中に芸術交流を開始することを決めた。
それに先だち、全国から選出されたいくつかの大学にプランニングルームを開設し、「ぬ」に関するさまざまな仮説を前提にした作品プランを抽出する。たとえば、人間とは異なる記憶の仕組みや、感情の有無、個体集団構造の違いなどを考慮したうえで、「ぬ」に伝わる絵画や音楽を作る。
「ぬ」研究家を自称するシステムアーティストの安斎利洋氏は「身体、感情、言語を共有しない生命体と、はたして芸術が共有できるか。この問いは人間と表現の本質を逆照射するだろう」と語っている。(2030年10月23日朝刊より)
《ぬ》の感覚や知性の特徴を仮説として設定する。
仮説と、それに基づく作品のセットを作る。
長岡造形大学 2016年10月13日講義のカンブリアンマップ
きっかけは、3月に投稿したこのツィート
投稿後数日目、ページビュー600万、リツィート4万9千??? って何それ。
そして投稿画像に加筆する「コラ」大喜利が始まった。
群る無数のバイラルメディア→検索:欠席するのが難しい
テレビまで。
(謝恩会の案内状を制作したムサビ基礎デザイン学科卒業生。画面はフジテレビより)
以下は、安斎の独断による整理。
同じ問いから起動する潜在的アイデアの多様性に驚くとともに、どんなアイデアも類型に被ってしまう探索空間の狭さも印象的だ。
(ボルヘス風に)
「出欠コラ」は以下のように分類できる。
ワークショップ:安斎利洋
ファシリテーター:市川みづ樹・小林なつみ
協力:淺田義和
001
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確認しながら作れるもの(対象化できるもの)>対象
045
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血管などでこぼこを表現
082
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指 「何げなく反対の手に触れられてその存在は無視されがち」
086
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背中 膝 足首 >紙を折る
106
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服 手 足 立体
098
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手足、髪 立体 「右をよく使うので大きくした」
049
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顔 髪 (上手)
073
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髪に顔が埋もれている
069
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手で触れることのできるうしろ姿 頭部と腕 髪 リボン
083
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顔 目(触覚的) 目のでっぱり 眼球の丸み
107
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胸像 「3Dで表現してしまった」 立体
081
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頭 首 実習続きで頭が重い自分
117
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全身 顔がでかい 立体 目あり 台紙からはみ出した足
010
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目 唇はでっぱっている
011
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目(細い) パーツは穴 エッジの凹凸
013
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014
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ほっぺたが大きい
019
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唇
025
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横顔 プロフィール >輪郭
029
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腕 手
036
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目
041
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何を問われているのか分からなかった
048
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ほっぺ
051
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横顔
053
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前髪の奥行
060
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目なし 耳
066
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目あり (芸術的でないがうまくできた、という本人の感想)
034
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>面白い絵
054
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自分が塗っていた口紅をつけた
105
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立体 手の感触
047
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演劇中
056
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080
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手が大きい
087
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「うまい」
092
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065
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090
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途中で左右対称でないことに気づく (かわいい絵)
003
003
紙の表裏 顔の表裏 裏側から見た顔
042
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横顔 現在の私と小学生のころの私 >時間
088
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工夫 触覚的写像 口まわりの複雑さ 鎖骨のためにあけた穴が後ろから見える
面白い絵
033
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切り絵 >紙を折ってから切る
058
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>丸 >紙を折ってから切る
091
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全身 + オーラ >紙を折ってから切る
119
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全身
心臓 左右の腎臓 左右の肺 膀胱 >紙を折ってから切る 左右対称
099
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折り紙 鶴「とりあえず折り紙したかった」 囲いはアイマスク
103
103
折り紙 鶴 白と黒 心の葛藤
004
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丸を作る 丸を作ろうとしても作れずいびつな形のままなのが自分か 折った紙もある
>紙を折ってから切る >丸
012
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体を丸の集まりとして表現 >丸
063
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暗くて怖かった 丸が中心 >面白い絵
040
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>顔 目のくぼみ 凹凸 硬い:鋭く 柔らかい:波線 >平面化 >記号化
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ほっぺたの季節変化 白は湿気の多い季節 黒は乾いた季節
055
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全身 人のカタチに 白黒を貼り重ねる 自己の内面 ちぎり絵
057
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全身 脈 心 ちぎり絵 しわ紙
118
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全身 黒い紙にはさみで傷をつけて体を描いている 「体の周りにある黒は自分自身」
027
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机 上肢 体幹 机の平面と机の角が離れている ちぎり絵
077
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全身 ちぎり絵
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唇
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世界 自分
070
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鼻 耳 口
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机 作業中の自分を俯瞰
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作業中の自分を俯瞰
039
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電気? 机に向かって授業を受けている遠くから見た自分
030
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人生の始まりの点 終わりの点 経験してきたこと ピアノ (おわりの点がはがれてしまっている) >時間 記憶 経験 ちぎり絵
006
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顔のパーツを 父と母の遺伝でたどる >遺伝
015
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実家で飼っている猫
018
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そこらへんにあった懐中時計
078
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グランドピアノ? とりあえず身近なもの
102
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顔 >立体 「自分が表現したものはすべて「自分」ではないかという境地に至り」
109
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火山 噴火 マグマ
008
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自我はひとつだと思ったので、ふたつの断片を重ねた >断片
044
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顔 顎が分離している 頚部も アイマスク
064
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全身 足が分離
116
注:作品は、袋に入れた断片として提出された。あとで、撮影のための配置を書いてもらった。
116
鼻 唇 耳 鎖骨 頭から項 髪 あご それぞれの部分がばらばら。(袋に入れて提出された)
061
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外部との接触面
089
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全身 反応のよいところ(感度の高いところ)を黒で表現 頭部(髪、口) 手 心臓 性器(感度もそうだが、トイレに行きたくて存在感を増す)
100
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足のうら 前腕 背中 「触ろうとしなくても触っているもの」 >立体
016
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おなかがすいている=空間 >全身
059
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髪 アイマスク アイマスクは空白 髪 時間を教えてくれて安心した
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触覚で感じる部分のみ 「腔」はなにもない空洞
手足 基部末端が強く感じ、その間は細い
座っているために骨盤・下肢が詳鮮
精巣 部分の分離
074
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髪「かみがなびくとき空洞があるように感じた」
腕「何回も折れ曲がるアーム」
「腹痛」「空気があたってもやもやする」
手「空気の流れ方からイソギンチャクのようなものをイメージ」
脚「ものすごく細いもの」
「骨盤の間に空洞を感じた」
097
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「触ってみると私は円柱だった」
104
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全身 立体 パイプ状の鼻腔と体内
何によって認知されたか。 目:アイマスク 鼻腔:吸気 口:唇 体内:吸気 背部:座面 脚:服 足:圧迫されている
で認知 など
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上半身を立体で表現 セーターの上にダウン ざらざらの上につるつるの重ね着 触感
111
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全身 立体 顔はなし
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ザラつく首 円錐の頭部 立体
007
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全身 耳に入ってくる音 心臓の音 >音 >全身
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机 うで 音 人の気配はぎざぎざ >気配 >音
076
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黒ベースの上に、外部のさまざまな対象
はさみの音 物が落ちる音 椅子の角張った感じ 後ろから風 後ろから鋭い音 低い音が壁のよう
何も感じない外部(黒ベースの外)
005
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自分の身体 そのまわりの音 人の気配 そのまわりの自分の意識できる範囲 >周りの世界の層
009
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手が届く範囲 頭・胴体(手で触れてわかる部分) 足が届く範囲
他人と手をつなぐ感触 自分を傷つけようとするもの
>周りの世界の層
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目を閉じていると、浮遊感。自分がまわっているのか世界がまわっているのかわからない感じ。>周りの世界の層(不安定な中心)
094
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体幹 心臓の鼓音 外界との連絡路
「自我を表現すると考えた次の瞬間には、外の世界とのつながりをどう表現するかを考えていたことに驚いた」
021
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ひとりの自分 集団を率いる自分 集団を支える自分 家族に囲まれた自分 友人と二人のときの自分 >面白い絵 >社会
113
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「自分は盲目であっても何かしらで社会に貢献したい」「まわりで紙を切る音がしたことから、あたり中に小さな紙片が散らばっているのではないか」「くず入れを作ったらいいと思い作成した」 立体 白と黒の箱
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感情の滝 消し去りたい過去 流れ込む名付けられないさまざまな感情 感情を心に運ぶ川(感情が触覚的対象)>感情
043
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いろんな感情が内面にあるから紙のしわを使って表現 成功 失敗
ちぎり絵 しわ紙
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全身 血しぶき 頑固、怒り、混乱 の3つの頭部
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何をすべきかわからなかった 心 中心部に自分の顔 >心
022
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もやもや(心)と 自分のおなかをつなぐもの >心と体
032
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全身 白と黒の層 人の心の光と闇
037
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心の中にある闇 周囲に吹き出し >心
068
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全身 それをさわる手 心オブジェクト 手だけは立体
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全身 心
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まるい感じ(楽しいこと幸せ、しかし頭の上にあって気づかない)
心に穴 悩み 悩みなどをネックレスにする >心の形象
115
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白い棒:自分の中で変わらないもの 3本それぞれ別の方向に歪んでいる
黒い丸:邪悪なもの 欲など
心の中を他人の覗かれないように遮断する覆い。
心の中 立体
038
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顔 笑顔 >シンプル
075
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全身「口角を上げるも、心はない」「ペテン師が笑うころに」
050
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笑顔がたえない社交的な自分と 本当の自分(笑ってない) >社会
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輪郭がにじんでいる >輪郭
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顔 髪 面としての輪郭 裏地が黒いのは人の心の闇を表現 >心 >面白い絵
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体のパーツ 心 黒い輪郭は自分とそれ以外との境目
093
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全身 ちぎり絵 柔らかい体の輪郭を紙をちぎって表現 髪も 爪は先端が鋭利なので鋏で切る 折り目は関節 技巧的 怪我をしていて、痛いところを伝える目的で作った 怪我は自分にとって異物
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触覚的な空間レイアウト? アイマスク
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全身 床 空気 >面白い絵
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顎 首 服 眉 目なし 立体を頑張って平面化した >面白い絵
(最終的に視覚を想定していることについて)
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顔 輪郭 触覚効果としての絵か、視覚効果としての絵か、という問題 表現の問題
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頸椎の棘突起(きょくとっき) 頭の中にある像に邪魔されないために、あえて像のない頸椎の棘突起を描いた。 視覚の束縛
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頭につける予定のパーツ >立体
「見えないとわかっていても作業している方向に目線を向けている」>視覚の束縛
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全身 立体
時間が圧倒的に足りない 理想図つき
そもそも「絵とは見る人が見るものだから2Dで形を表す、っておかしくない?」
3Dor2Dで形を表すのはおかしいなと思い、、、
(触覚的自我WSが、視覚的アウトプットをめざしているという矛盾を言っている?)
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注:作品は、袋に入れた断片として提出された。あとで、撮影のための配置を書いてもらった。
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http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D10S.html
http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D36S.html
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青木小夜子(1) シャンデリアっぽい[/caption]
本が出ました。
『エコ・ファンタジー 環境への感度を拡張するために』
山田利明、河本英夫 編著
春風社 3500円
2015/10/5 発売
Ⅰ 環境への思い
1 ファンタスティックな環境【岩崎大】
2 触覚性環境【河本英夫】
3 食料自給率【山田利明】
4 レジリエントな自然共生社会に向けた生態系の活用【武内和彦】
Ⅱ 一歩後退二歩前進
5 非合理の合理性【住明正】
6 ケンムン広場:生物多様性モニタリング研究における保全生態学と情報学の協働【鷲谷いづみ・安川雅紀・喜連川優】
7 消費者が関与する海のサステナビリティー:水産物エコラベルのポテンシャル【八木信行】
8 宇宙と環境とファンタジー【石崎恵子】
9 マヌカン・レクチャーとフレッシュな生命【池上高志】
Ⅲ 文化的環境
10 初期日本哲学における「自然」【相楽勉】
11 南方熊楠・説話研究と生態学の夢想【田村義也】
12 大正詩人の自然観:根を張り枝を揺らす神経の木々【横打理奈】
13 城外に詠う詩人:中国の山水田園詩【坂井多穂子】
14 潜在的人類を探索するワークショップ【安斎利洋】
15 エクササイズとしての無為自然【野村英登】
Ⅳ 障碍者・高齢者・避難者の環境
16 22世紀身体論:哲学的身体論はどのような夢をみるのか【稲垣諭】
17 移動・移用についての小論:フレッシュな生命【日野原圭】
18 カップリング(対化)をとおしての身体環境の生成【山口一郎】
19 高齢者・障碍者の能力を拡張する環境とは【月成亮輔】
20 障碍者の環境【池田由美】
カラー画像がデジタルデータとして扱えるようになりはじめた1990年代に、イメージの著作権をめぐるさまざまな議論が沸きあがった。他人の作品から新しい創作物を作る連鎖である「連画」をはじめていた関係で、僕は著作権をめぐるシンポジウムなどに何度も呼ばれた。当時の論点は、たとえばクリエイティブコモンズなどに受け継がれていく一方で、デジタルの「来航」に衝撃を受けたそのころに掘り下げた問題の本質は、むしろ風化しているようにも感じる。
当時発表に使ったスライド(ポジフィルム!)を、押入れの奥から発掘した。
当時人気だった伊藤方也氏の水墨画を使った広告。
これに対してホンダのこの広告が剽窃でないかと問題になった。
Cマガジンの読者にとってなつかしい秋山育さんのイラスト。このスタイルに似たイラストが新聞広告に使われ、秋山さんからの抗議を受け、アートディレクターとイラストレーターが広告で謝罪することになる。
下田義寛氏の院展出品作品「風舞う」(1979)。この作品がエリオット・ポーターの写真の盗用でないかと問題になった。NHKのニュースでは、両方の輪郭を画面上で重ねて完全に一致させるなどした。(下田氏はその後、作品の素材となった複数の写真家と交渉し著作権問題をクリアしている)
剽窃と呼ばれたこれらの例は、仮に連画のなかで行われればまったく異なる評価軸に晒される。連画は、他人の作品のイメージそのもの、スタイル、技法などを借用しながら、それをいかに転じたかを競うゲームだ。コンテキストをすげかえるためには、明示的に盗まねばならない。連画は、人間がミームをブートストラップする雛形を提示している。複製と転義は、いわば進化のデザインパターンなのである。
著作権は、知財の権利、作者の人格権など複数のレイヤーからなる問題で一筋縄ではない。例にあげたイラストレーターは、いずれも「新聞を見た知人がみな自分の作品だと思ったようだが、自分はこんな下手でない」という自分のブランドイメージの毀損について抗議しているのであって、それには共感できる。
しかし連画的な視座からすると、作者の人格権にもまして守られるべきは「作品の人格権」だ。ポーターが撮った鳥の形態は、絵画化されたがっているのではないか、絵画化される権利が作品にはあるのではないか、と考える。これを法律として明文化するのは難しいが、生成的な借用には寛容でなくてはならない。そういう暗黙の合意がない文化は、システムが閉じてしまう。逆に、情報を劣化させる非生成的な「ぱくり」は、糾弾されるべきだ。
そういう意味で、オリンピックのエンブレムをきっかけにするデザインの剽窃問題は不当な炎上だ。それを拡散しているメディアの意図的な情報劣化のほうが、よほど気になる。
実施日:2015/1/22・1/29・2/12
協力:市川みづ樹 小林なつみ 中村理恵子
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http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D10S.html
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ならしていくと平均化して流動が止まってしまうというのは体感的にわかる。
私たちの暮らす世界の「成長」ボタンがいつだれによって押されたのか?
今、レアな状態にあるのか、カオスなのか、気になる。
平均に近づき動けなくなる=死、ということを人間は本能的に知っているのかなと思う。
使う数字の種類を減らしていくと、規則が読み取れる模様ができる確率が高くなっているように見える。
エントロピーは増大していくのになぜモノは形づくられたのか、考えていたので、セルオートマトンは考えのとっかかりになりそうだ。
隣の神様がガン細胞だったので、苦戦した。
神の名前とかは関係ないのに、ひとりひとりに名前を与える先生のサービス精神がステキ。
ベニクラゲというクラゲは、老化が進むとまた子供に戻り、老化し、と繰り返す。死ぬことや生きることの定義がますますわからない。
神として「どうしたらいいだろう」とか「退屈だ」とか思ってしまっている点で、すでに生命をもってしまっている気がした。
神も存在も概念だったら、それを信じている人、知っている人、思っている人がいなくなった時点で消滅するのだろうか。
「オートポイエーシス論」は見えないものを見ていくが、少なくとも糸口となる可視性のあるものが媒介とならなければ、それはただのデタラメで童話のようなものとなる。
ちなみに先生は神の存在を信じますか?
デザイナーのいないテキスタイルデザインができそう。
テクスチャとして切れ目、継ぎ目なく使えるので、パタンナー泣かせ。
数字に色がついたらもっと面白い図になるのかな。
フラクタル、結晶、生きている形は美しい。
以前、ファックスのミスで同じような柄を発見した。
ある規律の中にイレギュラーが起こると「生きる」ことが多いような気がする。
基礎デではよく「数学は宇宙だ」と言われてきたが、そんなワークショップだった。
ワペラ遺伝子シミュレーターは時々「第3新東京市」になる不思議現象がおきた。
ワペラ36シミュレータを使って、レアな遺伝子を探そう!
http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D10S.html
http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D36S.html
遺伝子の文字列■名前 (出席番号)■コメント
遺伝子ごとに、上の順番で並べた一行の文字列を、コメント欄に投稿してください。(■は半角スペース)
例:
0011222E33344Y55A566677I788899FABBBCCCDDD9EFFGGGRHHHIIJJEJKKKLLL1MMMSNUNNOOOPPWQQQRRSSATTTUPUV4VVWWXXXYYZZ 安斎利洋(666)アポロ vs ディオニソス
「中間の性」や「第三の性」は、♂♀どちらでもないか、♂♀どちらでもあるか、♂♀の2項を前提にしたインターセックスとして考えられてきたが、生物学的に明確な第三の性別を考えてみよう。
3つめの項を想像するのはむずかしい。そこでまず名前をつける。
「おとこ」♂
「おんな」♀
「おめが」Ω
この3項によるヘテロな組み合わせは、
♂♀、♂Ω、Ω♀、♂♀Ω
の四つ。
♂-♀ にとって、Ωはどちらともヘテロ対象
♀にとって、♂-Ωのカップルはどちらともヘテロ対象
♂にとって、Ω-♀のカップルはどちらともヘテロ対象
仮想性別を思考するための戦略例
♂♀Ωの織り成す人間ドラマを考える
自分がΩと真剣に交際することを考える
魅惑的なΩは?
Ωの顔は?
Ωの服装、化粧は?
Ωの性機能、性徴、性器は?
Ωの進化的な役割を考える
ホモセクシュアルはΩの幻影?
オメガには、小文字のωと大文字のΩがある
はこだて未来大の中島秀之さんが「進化の結果として、人類を超える人工知能が人類を滅ぼす事はあってよい」と飲みながら話していたという話題を、 Facebook のとある界隈で目にした。こういうガツンとくる放言には、心の底から親近感を覚える。中島さんとは未踏の合宿でお会いしたことはあるが、このような共振周 波数は気づかなかった。
芸術家は、人間の幸せのために作品を作るなどとは考えない。作品の幸せのために人間を作るのが芸術家だ。そんなことはない、という芸術家がいれば、それは偽物だ(と僕は芸術家を定義している)。
どの業界にも芸術家はいて、科学者だったり工学者だったりラーメン屋だったりするが、芸術の世界にいるのが芸術家であるとは限らない。中島秀之さんは本業はどうあれ、間違いなく芸術家の範疇だ。
C コンパイラはCで書かれている、という文章を読んだときに、僕は一生コンピュータとともに生きるだろうと思うほど感銘をうけた。かつて旋盤が作られると、 旋盤は手作りするものから旋盤で作るものになった。システムが作るものと作られるものの階層性を切断して、再帰的に浮上する瞬間だ。
生き物であるわれわれが、遺伝的表現型の延長として人工物を作ることに間違いないが、3Dプリンタがいずれ3Dプリンタで作られるようになれば、3Dプリンタは若干生き物っぽくなるだろう。生命的な自律性が、手に負えない利己的な振る舞いをしはじめる。
再 生医療やBMIは、人間が人間のハードウェアを書き換え、人間が人間よりもひと周り大きな「何か」の一部となり、あたらしい循環を開始させる技術的特異点 になる。そのような事態に遭遇したときに、人間がある目的のためにモノをデザインし制作する、という一方的な世界観はほとんど有効ではない。
ドゥルーズは、脱領土化をランとスズメバチで例示する。ランの養分を掠め盗る害虫は、あるときランの生殖システムの一部に組み込まれる。害虫との共進化に踏み出すときランが向き合う違和感は、芸術が戦略的にもたらす違和感とよく似ている。
「ラ ン×スズメバチ」のカップリングは、それ以前の個別のランとスズメバチを滅ぼす新生物であると言うこともできる。人間もまた「人間×制作物」に滅ぼされ続 ける仮のフレームだ。「人工知能のデザインしたものが人間を滅す」という違和感にまともに向き合えない思想は、逆に何の延命にも役立たない。
オートポイエーシス論2014
第0講 オリエンテーション
みなさんこんにちは。9月にはじまるオートポイエーシス論のオリエンテーションです。
最近、学校で講義する内容をそのままWebにアップして、学校ではひたすらリアルな場における相互作用に徹する「反転授業」が流行っています。オートポイエーシス論(安斎担当分)は、例年Webのどこかに作業場をもってきましたが、ここはその反転エリアです。
さて5年ほど前の話になりますが、早稲田大学のある学部で「未来のケータイを考える」というテーマをかかげ、グループごとに製品コンセプトを作り、競いあう授業がありました。僕は最終コンペの審査員としてゲストで呼ばれたのですが、たとえばこんなのがありました。
ATSUME-ON
身の周りの音と風景を集めよう。集めた音を編集して、混ぜたり変えたりお好みで。写真と音で「音日記」。友達と共有して楽しもう。
遊phone
ヴァーチャルな遊びをサポートするセンサーや通信機能。カメラで撮ったその場の写真から、可能な遊びを検索する発見機能。自分が見つけた遊び、作った遊びをデータベースにアップ、他人との共有機能。
PAKIPO
Healthwearするケータイ。体調を記録して健康をサポート。日々のトレーニングをオートメモリー。起きるまで転がり続ける目覚まし機能。着けてるときはいつでも振ってエコ充電。
いかがですか。最後の「PAKIPO」など、今秋アップルが発売を予定している「iWatch」を先取りするようです。そのまま業界で通用する実践力のある、いかにも早稲田生らしいすばらしい作品の数々に驚嘆しました。
と同時に、僕はふとつぎのようなとまどいを感じました。
「はたして未来にケータイがあるだろうか」
すでにスマートフォン一色の現在でさえ、当時の「ケータイ」は違うジャンルの製品に感じられます。おそらく10年後にケータイはありません。そこには「何か」があるはずですが、姿のない「何か」について考えるのは困難です。
早速僕は、ムサビの授業で「ケータイのない未来」というテーマを掲げ、みんなに練ってもらいました。以下は、基礎デの学生から提出されたアイデアの一部です。
・携帯彼氏
コミュニケーションツールが人型ロボットになる。好きな服を着せされる。裸でもOK。添い寝してくれながらもメールを知らせてくれる。男からのメールにはやきもちを焼いたりする。
・遍在する電話
規定の形にモノを切ると、それが電話になる。紙でも布でも。もしくはその大きさにペンなどで区切る。破れば電話じゃなくなる。
・ケータイ投げ祭り(日本伝統行事)
イタリアのトマト投げ祭りならぬケータイ投げ祭り。お互い心を無にしてケータイを投げ合うことで、日ごろの資本主義へのうっぷんを晴らす。ケータイはこの祭でしか使われない。
・守護霊
守護霊同士が会話する。「来週、赤坂でコンパだよー」「おっけー」等々。どんな距離があってもOK。
・樹になろう!
幼児期に頻繁に土中に入れ、土との整合性、耐久性を養う。一代では無理だから、何代でも持続して行う。樹になろうという気持ちが大事。
すごいでしょう。いきなり社会に通用しそうにない、という意味において、いかにもムサビ的ですよね。しかし早稲田版とは違う、突出した何かをそれぞれがもっています。
「携帯彼氏」は、渡辺謙が出てくる一連のドコモのCMを思わせますが、この学生の名誉のために言っておくと、携帯彼氏のほうが1年も前です。ドコモがぱくった、のかもしれないわけです。
「遍在する電話」は、これをどう実装するか考えるだけでユーザーインタフェースに関する数々のアイデアを引きだしそうな、すぐれたコンセプトモデルだと思います。僕はとてもこれが好きです。
「ケータイ投げ祭り」は、空洞化しながら回り続ける伝統の無根拠性をうまくあらわした秀作で、ペタペタ貼ってあるのは、コンペで集めた投票のシールで、ダントツの一等賞でした。
「守護霊」はオカルトのようですが、ある種のソフトウェアやサービスが目指している技術のメタファーとして、すでに兆しがあるように思います。
「樹になろう!」に至っては、ケータイの話はどこかに行ってしまって、人間そのものを変えてしまおうというわけです。このアイデアはたぶん、樹木同士の化学コミュニケーションに関する研究から想を得ているのだと思われ、「ケータイのない未来」のビジョンであることは間違いありません。
大学による気質の差もありますが、それだけでこの違いを説明することはできません。ここにあるのは「問い方」の違いです。かたや、ケータイという「問い」側の項を固定し、そこにひろがる潜在的な可能性の束を探索せよ、という課題を提示しています。後者は「問い」にあるべき固定項を抜いてしまうことによって、「問い方」そのものを問うているのです。
僕たちはつい、いかに答えを出すかが重要であると考えます。正しい答えが導き出されると、それを手掛かりにして次の正しい答えが導かれる連鎖が、人間の文明、とりわけ科学技術の成功の裏付けになっています。
しかし人間を特徴づけるのは正しい答えを導く推論の力ではなく、何を推論として起動するか、つまり「何を問うか」です。問いがたてられ、それを解決しようとする運動の過程が、次の問いを生み出し、問いが問いを産む連鎖が、人間の文明を特徴づけていると僕は考えます。
「ケータイ」と固定された問いのなかで答えが答えを産む作動は、システムを「ケータイ」というテリトリーの中に閉じ込めてしまいます。そのうち「ケータイ」そのものが空洞化しても気づかないで空転したりします。
一方、問いそのものを問う回路は、樹になってしまうところまで人間を外へ外へとずらしていく可能性をもっています。このような回路を、僕は「ワークショップ」と呼びます。
ワークショップというスタイルはいまや大流行していて、その意味するところを一言で定義するのは困難です。が、ここではあえて「コンテンツではなくプロセスについての関心を共有すること」である、と言ってしまいましょう。
たとえば芝居にしても講義にしても、あらかじめ準備された内容を伝えることを目的とする集まりをワークショップとは呼びません。一方、芝居の稽古場に観客を呼び、芝居作りを共有するのはワークショップです。
知識をゴールとするのでなく、知識を得るためのプロセスをどのようにしたらよいのか、その試行錯誤が含まれる研究会はワークショップと呼ばれます。
レストランのメニューではなく調理場のまかないメシを追求したり、家を建てること自体が目的となって増殖をはじめた変な家なども、その倒置した構造がきわめてワークショップ的であると考えます。
デザインとは何かを考えるとき、人間がより幸福に生きるために人工物を作ること、と考えるのは(それは一般的なデザイン観ですが)、まったくワークショップ的ではありません。
ワークショップ的なデザインとは、「人間の幸福」にあたる目的が、「ケータイのない未来」のように空白になった状態から出発します。人間にとって良いデザインを作るのではなく、あるデザインを良いとする人間が作れるか、ワークショップとはそのような問いの形です。それは、人間の潜在性の地平線がどこにあるのか、という問いでもあります。
この授業では、そのようなワークショップを、概念として、また実践として繰り出していきます。先入観をもたないために、準備は必要ありませんが、不足する座学はその都度Webで補います。
ひとつだけ4月のうちから準備してもらいたいことがあります。それは、なるべく何の意味もないような写真を撮りためること。単体で意味のない写真をつないでいくことによって、強い連なりを編み上げる「カンブリアンゲーム」を予定しています。ゲームに参加するための手札を用意してください。
昨年のカンブリアンゲーム@基礎デセッション、はここにあります。
カンブリアンゲーム2013
カンブリアンゲーム2013名跡集
また、新春カンブリアンゲームも参考に。
では、また9月に会いましょう。
「ゴーストベートーベン」の一件に関して飛び交うさまざまな言説につい口を挟みたくなってしまうのは、この問題が無視できないほど自分自身とリンクしているからに違いなく、それはすなわち「作者の死」の問題なのだと思う。
現 代芸術にかかわる人なら、ゴースト作家たる新垣隆さんのとった一部始終に不可解な行為はない。100年前の書法を緻密に組み上げたベタな作品を、現代のコ ンテキストで勝負する自分の作品群のひとつとして発表はできない。しかし仕立てられた別人格の作品として、思い切り世間ウケする作品を仕上げる遊びはさぞ 楽しかっただろうと想像できる。永井荷風が全力を傾けて書いた春本を、幾重にも匿名化して表した「四畳半襖の下張」を思い出す。
別人格たる今様ベートーベンの方は、仮想人格をどんどん怪物化していき、手に負えなくなったゴーストはこの物語を終わらせるべく、一部始終を世間に公表した。新垣さんの選んだゲームエンドは、幸いにも誠意ある行為として世間から好意的に受け止められているようだ。
芸 術家が自分自身という一種のブランドを貫き、芸術の閉社会のなかで評価を得ようとするのはどんなアーティストにも身に覚えのあることだろう。そのブランド こそ、ロランバルトが半世紀前に「作者の死」として死刑宣告した「作者」張本人だ。しかし作者はまだ死んでいないばかりか、作品をさしおいて作者だけが生 きていたりする。
「批評は今でも、たいていの場合、ボードレールの作品とは人間ボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、ということによって成り立っている。」(ロラン・バルト「作者の死」)
こ こが事件の核心だ。バルトが言う作者は、作品の作り手という素朴な意味ではなく、作品を成立させる強い幻影、作品さえそれに振り回される仮想人格のこと だ。聴衆や読者が作者のドラマを通して作品を評価するのも、作者が作風やメッセージの一貫性を貫こうとするのも、「作者」の仕業だ。障害者というドラマを 作品にリンクしたがる世間の感覚も、自分の実験的な作風から古い交響曲を遮断する感覚も、「作者」のなせる業なのだ。
バルトはその「作者」に対して、お前はもう死んでいると言った。バルトが未来に見ていたのは、作者のいないところ、あるいは作者と作者の間に宙吊りに産み落とされる作品そのものの生成力で、それこそまさに誰にも属さない交響曲が生まれ落ちた事態を写している。
「今後テクストは、その内部のあらゆるレベルから作者が姿を消すように作られ、読まれることになる。」(同)
「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。」(同)
バルトくらい、インターネット文化のありようをいち早く予見した人はないと思うのだが(「作者の死」は1968年)、逆にバルトのイメージに先導されて現在の電子的テクスト空間が形をなしたのかもしれない。いやこの言い方は違っていて、バルトもまた死すべき「作者」だ。
作 品は作者が作るわけではなく、作品そのものの利己的な遺伝子に生み落とされる。このイメージを共有できれば、ゴースト事件はそれほど不気味な話ではなく、 むしろAにもBにもつくれない作品がAとBの相互作用から生まれる例示にすぎない。そんなことは、カンブリアンゲームのなかで日常茶飯におきている。
連 画もまた、作者の死の具現として90年代に語られてきたし、シェア、オープンソース、コモンズなどなど、作者の間に生成されるコンテンツはインターネット とともに勢いづいてきたけれど、それと並行してソーシャルネットワークはますます肥大化した作者の住む場所にもなっている。もう一度、連画のことを考えよ うかと思っている。