人間はワークショップとして世界を制作する

オートポイエーシス論2014
第0講 オリエンテーション

みなさんこんにちは。9月にはじまるオートポイエーシス論のオリエンテーションです。

最近、学校で講義する内容をそのままWebにアップして、学校ではひたすらリアルな場における相互作用に徹する「反転授業」が流行っています。オートポイエーシス論(安斎担当分)は、例年Webのどこかに作業場をもってきましたが、ここはその反転エリアです。

さて5年ほど前の話になりますが、早稲田大学のある学部で「未来のケータイを考える」というテーマをかかげ、グループごとに製品コンセプトを作り、競いあう授業がありました。僕は最終コンペの審査員としてゲストで呼ばれたのですが、たとえばこんなのがありました。

ATSUME-ON
身の周りの音と風景を集めよう。集めた音を編集して、混ぜたり変えたりお好みで。写真と音で「音日記」。友達と共有して楽しもう。

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遊phone
ヴァーチャルな遊びをサポートするセンサーや通信機能。カメラで撮ったその場の写真から、可能な遊びを検索する発見機能。自分が見つけた遊び、作った遊びをデータベースにアップ、他人との共有機能。

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PAKIPO
Healthwearするケータイ。体調を記録して健康をサポート。日々のトレーニングをオートメモリー。起きるまで転がり続ける目覚まし機能。着けてるときはいつでも振ってエコ充電。

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いかがですか。最後の「PAKIPO」など、今秋アップルが発売を予定している「iWatch」を先取りするようです。そのまま業界で通用する実践力のある、いかにも早稲田生らしいすばらしい作品の数々に驚嘆しました。

と同時に、僕はふとつぎのようなとまどいを感じました。

「はたして未来にケータイがあるだろうか」


すでにスマートフォン一色の現在でさえ、当時の「ケータイ」は違うジャンルの製品に感じられます。おそらく10年後にケータイはありません。そこには「何か」があるはずですが、姿のない「何か」について考えるのは困難です。

早速僕は、ムサビの授業で「ケータイのない未来」というテーマを掲げ、みんなに練ってもらいました。以下は、基礎デの学生から提出されたアイデアの一部です。

・携帯彼氏
コミュニケーションツールが人型ロボットになる。好きな服を着せされる。裸でもOK。添い寝してくれながらもメールを知らせてくれる。男からのメールにはやきもちを焼いたりする。

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・遍在する電話
規定の形にモノを切ると、それが電話になる。紙でも布でも。もしくはその大きさにペンなどで区切る。破れば電話じゃなくなる。

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・ケータイ投げ祭り(日本伝統行事)
イタリアのトマト投げ祭りならぬケータイ投げ祭り。お互い心を無にしてケータイを投げ合うことで、日ごろの資本主義へのうっぷんを晴らす。ケータイはこの祭でしか使われない。

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・守護霊
守護霊同士が会話する。「来週、赤坂でコンパだよー」「おっけー」等々。どんな距離があってもOK。

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・樹になろう!
幼児期に頻繁に土中に入れ、土との整合性、耐久性を養う。一代では無理だから、何代でも持続して行う。樹になろうという気持ちが大事。

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すごいでしょう。いきなり社会に通用しそうにない、という意味において、いかにもムサビ的ですよね。しかし早稲田版とは違う、突出した何かをそれぞれがもっています。

「携帯彼氏」は、渡辺謙が出てくる一連のドコモのCMを思わせますが、この学生の名誉のために言っておくと、携帯彼氏のほうが1年も前です。ドコモがぱくった、のかもしれないわけです。

「遍在する電話」は、これをどう実装するか考えるだけでユーザーインタフェースに関する数々のアイデアを引きだしそうな、すぐれたコンセプトモデルだと思います。僕はとてもこれが好きです。

「ケータイ投げ祭り」は、空洞化しながら回り続ける伝統の無根拠性をうまくあらわした秀作で、ペタペタ貼ってあるのは、コンペで集めた投票のシールで、ダントツの一等賞でした。

「守護霊」はオカルトのようですが、ある種のソフトウェアやサービスが目指している技術のメタファーとして、すでに兆しがあるように思います。

「樹になろう!」に至っては、ケータイの話はどこかに行ってしまって、人間そのものを変えてしまおうというわけです。このアイデアはたぶん、樹木同士の化学コミュニケーションに関する研究から想を得ているのだと思われ、「ケータイのない未来」のビジョンであることは間違いありません。

大学による気質の差もありますが、それだけでこの違いを説明することはできません。ここにあるのは「問い方」の違いです。かたや、ケータイという「問い」側の項を固定し、そこにひろがる潜在的な可能性の束を探索せよ、という課題を提示しています。後者は「問い」にあるべき固定項を抜いてしまうことによって、「問い方」そのものを問うているのです。

僕たちはつい、いかに答えを出すかが重要であると考えます。正しい答えが導き出されると、それを手掛かりにして次の正しい答えが導かれる連鎖が、人間の文明、とりわけ科学技術の成功の裏付けになっています。

しかし人間を特徴づけるのは正しい答えを導く推論の力ではなく、何を推論として起動するか、つまり「何を問うか」です。問いがたてられ、それを解決しようとする運動の過程が、次の問いを生み出し、問いが問いを産む連鎖が、人間の文明を特徴づけていると僕は考えます。

「ケータイ」と固定された問いのなかで答えが答えを産む作動は、システムを「ケータイ」というテリトリーの中に閉じ込めてしまいます。そのうち「ケータイ」そのものが空洞化しても気づかないで空転したりします。

一方、問いそのものを問う回路は、樹になってしまうところまで人間を外へ外へとずらしていく可能性をもっています。このような回路を、僕は「ワークショップ」と呼びます。


ワークショップというスタイルはいまや大流行していて、その意味するところを一言で定義するのは困難です。が、ここではあえて「コンテンツではなくプロセスについての関心を共有すること」である、と言ってしまいましょう。

たとえば芝居にしても講義にしても、あらかじめ準備された内容を伝えることを目的とする集まりをワークショップとは呼びません。一方、芝居の稽古場に観客を呼び、芝居作りを共有するのはワークショップです。

知識をゴールとするのでなく、知識を得るためのプロセスをどのようにしたらよいのか、その試行錯誤が含まれる研究会はワークショップと呼ばれます。

レストランのメニューではなく調理場のまかないメシを追求したり、家を建てること自体が目的となって増殖をはじめた変な家なども、その倒置した構造がきわめてワークショップ的であると考えます。

デザインとは何かを考えるとき、人間がより幸福に生きるために人工物を作ること、と考えるのは(それは一般的なデザイン観ですが)、まったくワークショップ的ではありません。

ワークショップ的なデザインとは、「人間の幸福」にあたる目的が、「ケータイのない未来」のように空白になった状態から出発します。人間にとって良いデザインを作るのではなく、あるデザインを良いとする人間が作れるか、ワークショップとはそのような問いの形です。それは、人間の潜在性の地平線がどこにあるのか、という問いでもあります。


この授業では、そのようなワークショップを、概念として、また実践として繰り出していきます。先入観をもたないために、準備は必要ありませんが、不足する座学はその都度Webで補います。

ひとつだけ4月のうちから準備してもらいたいことがあります。それは、なるべく何の意味もないような写真を撮りためること。単体で意味のない写真をつないでいくことによって、強い連なりを編み上げる「カンブリアンゲーム」を予定しています。ゲームに参加するための手札を用意してください。

昨年のカンブリアンゲーム@基礎デセッション、はここにあります。
カンブリアンゲーム2013
カンブリアンゲーム2013名跡集

また、新春カンブリアンゲームも参考に。

では、また9月に会いましょう。