人工知能が人類を滅ぼしたっていいじゃない

はこだて未来大の中島秀之さんが「進化の結果として、人類を超える人工知能が人類を滅ぼす事はあってよい」と飲みながら話していたという話題を、 Facebook のとある界隈で目にした。こういうガツンとくる放言には、心の底から親近感を覚える。中島さんとは未踏の合宿でお会いしたことはあるが、このような共振周 波数は気づかなかった。

芸術家は、人間の幸せのために作品を作るなどとは考えない。作品の幸せのために人間を作るのが芸術家だ。そんなことはない、という芸術家がいれば、それは偽物だ(と僕は芸術家を定義している)。

どの業界にも芸術家はいて、科学者だったり工学者だったりラーメン屋だったりするが、芸術の世界にいるのが芸術家であるとは限らない。中島秀之さんは本業はどうあれ、間違いなく芸術家の範疇だ。

C コンパイラはCで書かれている、という文章を読んだときに、僕は一生コンピュータとともに生きるだろうと思うほど感銘をうけた。かつて旋盤が作られると、 旋盤は手作りするものから旋盤で作るものになった。システムが作るものと作られるものの階層性を切断して、再帰的に浮上する瞬間だ。

生き物であるわれわれが、遺伝的表現型の延長として人工物を作ることに間違いないが、3Dプリンタがいずれ3Dプリンタで作られるようになれば、3Dプリンタは若干生き物っぽくなるだろう。生命的な自律性が、手に負えない利己的な振る舞いをしはじめる。

再 生医療やBMIは、人間が人間のハードウェアを書き換え、人間が人間よりもひと周り大きな「何か」の一部となり、あたらしい循環を開始させる技術的特異点 になる。そのような事態に遭遇したときに、人間がある目的のためにモノをデザインし制作する、という一方的な世界観はほとんど有効ではない。

ドゥルーズは、脱領土化をランとスズメバチで例示する。ランの養分を掠め盗る害虫は、あるときランの生殖システムの一部に組み込まれる。害虫との共進化に踏み出すときランが向き合う違和感は、芸術が戦略的にもたらす違和感とよく似ている。

「ラ ン×スズメバチ」のカップリングは、それ以前の個別のランとスズメバチを滅ぼす新生物であると言うこともできる。人間もまた「人間×制作物」に滅ぼされ続 ける仮のフレームだ。「人工知能のデザインしたものが人間を滅す」という違和感にまともに向き合えない思想は、逆に何の延命にも役立たない。