その淺井さんと、オートポイエーシスを創作の戦略としてかかげる村山悟郎が作家同士共感しあい、ギャラリーの壁を埋め尽くす展示をおこない、しかも数年前の僕らの講義を盛り立ててくれた下西風澄がトークをするというので、柏のTSCAまで行ってきました。
彼らはそれぞれ局所的な作用で絵を描く作家だけれど、未知だった大山エンリコイサムとの響きあいもあり、作家同士のカオス結合がもたらす大きな形がTSCAの空間を圧し支えているような感覚を覚えました。
全体の計画をもたず部分から組織される生成の方向にしたがって、クローズアップから作品を見始めると、異質だったはずの三者が共通するイディオムをもっていたり、べニア板やマスキングテープをシェアしていたり…
一見いい感じのエスニック風な淺井作品が、作家よりも深いところにある自律系に駆動されているように見えたり、外部的な規則で描いている村山作品にとってノイズである無意識の選択がシステムの一部に見えてきたり。
互いが互いの潜勢を開くことも、行為と触発の循環の一部をなす、すばらしくスケールフリーな展示でした。
(2013年11月25日 安斎)
1981年、東京生まれ。絵描き。テープ、ペン、土、埃、葉っぱ、道路用白線素材など身の回りの素材 を用いて、キャンバスに 限らず角砂糖の包み紙や紙ナプキンへのドローイング、泥や白線を使った巨大な壁画や地上絵のシリーズまで、あらゆる場所 と共に奔放に絵画を制作する。
1983 年、東京生まれ。美術家。自己組織的に生成するプロセスやパターンを、絵画やドローイングをとおして表現している。 2011 年チェルシーカレッジ MA ファインアートコース(交換留学)、2012 年東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。 現在、同大学院後期博士課程に在籍。
1983 年、東京生まれ。慶應義塾大学卒業後、東京芸術大学大学院修了。グラフィティの視覚言語から抽出された「クイックタ ーン・ストラクチャー(Quick Turn Structure)」というモチーフを軸に、ペインティングやインスタレーション、壁画などの 作品を発表する。また現代美術とストリートアートを横断する視点から、執筆活動も並行して行なう。2011 年秋のパリ・コレ クションでは COMME des GARÇONS にアートワークを提供するなど積極的に活動の幅を広げている。現在ニューヨーク在住。
”グラフィティは名前としてかかれるから、その造形はデザインされた文字の組み合わせ(レタリング)なのだけど、この「名前」というのがここで問題になる。
公 共空間に名前をかくという行為は政治闘争的な解釈を呼びこみやすい。それから名前=文字であるということは、それが「読める/読めない」「リテラシーがあ る/ない」というかたちでコミュニティ内外の温度差をどうしても引きずってしまう。そして造形的にも、グラフィティの独特なデザイン性が、結局は文字型と いう外枠に規制されてしまう。名前であることがいろいろな意味で足かせになっている。
だからぼくのやっていることは、グラフィティ・レ タリングから文字型をはずし、クイックターンという描線の運動だけを取り出してきて反復することで、抽象的なモチーフへと再構成していくという作業。その モチーフをクイックターン・ストラクチャー(Quick Turn Structure、以下QTS)と呼んでいる。”
アフリカ大陸マウ川流域に暮らすマウ族の実態はほとんど知られていない。2030年、現地調査に入った武蔵野美術大学オートポイエーシス研究チームにより、マウ人は階層的思考をしない一種の発達障害であることがわかってきた。
人間はだれしも種類の違う発達障害のどれかに属するという「発達障害相対論」の立場をとる同チームは、マウ族の独特の文化がこの非ヒエラルキー障害に由来するという仮説のもとに調査を進めている。
たとえばマウ人は、目的と手段を階層化しないため、何かを作ろうとはせず、作ってからそれが何かを考える。
マウ人にとって制作とは、作り手→作品→使い手 というヒエラルキーをとらず、作り手→作品→作り手→作品→作り手→作品→、と連鎖する触発の循環を形成する。そのためマウのプロダクトはきまぐれに定義を変え、昨日かなづちだったものが、今日は楽器になったりする。
文明国において生産者と消費者は異なる層に属し、たとえばある製品はデザイナー→プロダクト→ユーザーというアロポイエティックな階層をなしている。同研究チームは閉塞的な世界制作状況に活路を見出すため、マウになりきった制作実験を開始し、このたび発表するに至った。
この実験では、設計、プラン、役割、などを決めてから行為に移るという手順はとらず、まず行為がはじまる仕掛けだけ作り、行為が何かを生み出し、それに触発されてあたらに行為が生まれる。この循環がうまく成立することを、同チームは「マウいい」と呼んでいる。
(REMEME新聞 2030年12月6日号より)
という想定でワークショップを行う。
たとえば小説が作られ読者に届けられるまでの過程は、このような階層的なイメージでとらえることができます。
アイデア
↓
作者
↓
作品
↓
読者
連画、カンブリアンゲームに参加し、その作動の内部から体験するさまざまな心の動き、たとえば好きな作品にどうしても作品を付け加えたくなる気持、自分の作品に意外な展開が繰り広げられたときの興奮などは、上に書いた階層的なマップから説明することができません。ここでは、
作品→作者→作品→作者→作品→作者→
という単層の世界を舞台とする循環があります。この循環を成り立たせている要素をさらに純化するなら、作品と作者は
行為→触発→行為→触発→行為→触発→
と書き換えることができます。
作るもの作られるもの、意味するものと意味されるもの、環境と私、などなどが階層をなし、コントロール可能な単方向の工程で閉じる構造をアロポイエーシスと呼びます。産業はアロポイエーシスとして発達しましたし、創作における「作者→作品→読者」という構造も近代的な産業の中で培われました。
しかし文化の内部的な醸成は、むしろ連画やカンブリアンゲームと同じように行為と触発の連鎖反応回路を発達させる過程を何万年も前から脈々と続けていて、これはオートポイエーシスそのものです。
そこでは、「作者→読者」で作品制作が終端に達することはなく、「読者→作者」として再び立ち上がる手が、エッシャーの絵のように永久に終わらない絵を描き続けます。
階層的で単方向のアロポイエーシスと、循環的な生成が回路をなすオートポイエーシスを、対比的に考えてみます。
(続き編集中。以下はハンドアウトです)
allo:異質の auto:自分の poiesis:制作
作る行為→生成物
作るものと作られるものが別の層にある。allopo.
作る行為→生成物→作る行為→生成物→…(循環する)
構成要素を作り出すプロセスのネットワークが、
自分自身を作ったネットワークを常に再生産し続ける閉じたネットワーク。
autopo.
allopo.
作者→作品→鑑賞者
デザイナー→プロダクト→ユーザー
著者→出版社→読者
autopo.
連画・カンブリアン
作者→作品→作者→作品→作者→作品→ 触発の連鎖
読者、作者が同じ層にいる Consumer Generated Media
外部に存在理由がある 原理原則はあらかじめ決まっている allopo.
外部に存在理由がない 入出力がなくても勝手に回っている autopo.
(妄想のように)(閉じたロッカーのように)
人間が巣礎を作り、ミツバチが巣礎に巣を作る allopo.
人間が巣礎を作り、巣礎の上に人間の巣礎を作る。autopo.
トップダウン 計画先行 俯瞰的 allopo.
ボトムアップ 無計画 局所的行為が全体を自己組織化 autopo.
ムクドリの群れ、アリの巣、セルオートマトン
ある道具を見て
これは釘を打つ道具である(属性、意味、シニフィエ) allopo.
鉄の頭に木の柄がついている(モノ、シニフィアン、ブリコラージュ) autopo.
知識伝達のための教室 allopo.
知識創出・追体験のためのワークショップ autopo.
人間の幸福を追求する allopo.
(人間らしさはあらかじめ方向がある)
人間の幸福を発明する autopo.
(無数の潜在的な人類を考えることができる)
(共進化 再領土化 カオス的遍歴)
「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話 に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)賂蛇の毛のご く細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」
自分がいて、仲間がいて、教室の中で話をしているとき、共有するひとつの世界があり、そこにAやBやCが包まれているイメージを思い描く。
たとえば拡張現実を考えるときも、みんなが共有しているひとつの現実があり、そこに情報を付加すればよい、と考える。
触覚的自我では、自己と環境の境界線が自明ではない。安定した基盤としての環境があり、そこをベースとして私がいるのではなく、どこを基礎にしてもよいような、どこにも基礎がないような、宙吊りの感覚を味わう。
ニクラス・ルーマンは「互いに他を環境とする二つのシステムの関係」といって、「構造的カップリング」を説明する。
あらかじめ世界が用意されていてそこに私たちがいるのではなく、私を環境とするものたちが私の環境として私をとりかこみ、複雑に浸潤しあった「私」たちの相互作用として世界がつくられている。
詩的工学の提言──芸術と工学の相互越境(電子情報通信学会誌 90(12), 1086-1090, 2007-12-01)
連衆(参加メンバー)に、マップの中から好きなフロー(流れ)を投票してもらった結果、得票の多いリンクを集めました。
LEAF0023
↓
LEAF0193
↓
LEAF0292
LEAF0171
↓
LEAF0196
↓
LEAF0319
LEAF0061
↓
LEAF0096
↓
LEAF0192
LEAF0084
↓
LEAF0187
↓
LEAF0241
LEAF0141
↓
LEAF0182
↓
LEAF0267
LEAF0032
↓
LEAF0112
↓
LEAF0161
LEAF0030
↓
LEAF0053
↓
LEAF0071
LEAF0082
↓
LEAF0147
↓
LEAF0169
第三者によるパラダイムシフト、面白いです。
自分が貼るのもいいですが、誰かが自分の写真につなげてくれると、とてもうれしいですね。逆に誰もつなげてくれないと悲しいですね。
カンブリアンゲームは、要素が増えすぎない方が自分の存在意義を感じて燃えました。
長く続けると似たようなつなぎ方が増えて退屈だった。
前回ほど脈は広がらなかったように思う。数的には広がっているかもしれないが、鮮度がちょっと下がった気がする。(新鮮味の問題か?)
もうこれ以上つながっていかないだろうと思われる画像でも、誰かが一つつなげるとそこからまたひろがっていったりする。
連想のしかたにもさまざまあることがわかった。
分類的に似ている。
視覚的に似ている。
配置位置関係が似ている。etc
純粋視覚的につなげているものと、意味にひっぱられているものがある。
類似しているもの同士が、性質、物としての距離が離れていれば離れているほど良いと思った。
形が似ている画像のつながりより、案外全然つながっていない、似つかない画像のほうが面白い
色が形が似ているというだけではなくて、概念のような、なんとなくわかるものが一番面白いと思った。
なかなか持っている写真とカンブリアンの中の写真がリンクしませんでした。
あ!あれ似てる!と思っても写真を持ってなくて、悔しいと思ったことが多々ありました。
写真を見て○○に似ている、○○の画像をつなげたいと思っても、なかなか納得のいく画像を持っていなくて、何ともいえない気持ちになりました。これが連画だったら、もっと自由につなげられそうです。
自分の持っている写真の中の「これぞ」というものをマップに加えたくて、その写真をつなげられるやつを探している自分に気が付いて、本末転倒だなと思いました。
他の人たちに気にとめてもらえる写真を選ぶためには、インパクトがあってわかりやすいことが条件だと思いました。そのような写真は、他のリーフにつなげても言い切ることができるパワーがあると思います。情報過多の現代社会と同じように思います。
ネット上から拾ってくるのがOKなら、もっとたくさん貼れそうなのですが。
既存の画像同士をつなげるということはできないのでしょうか。遠くのをつなげたいときに、プログラム処理が大変そうですが(笑)。
まったく面識のない人たちでやっても面白いかも
死んでも話し続ける自分のbotを作りたいとおっしゃっていましたが、現存するbotと違って、違うことをたびたび話すようにするにはAIみたいにするということですか?
→AIは人工知能。botは人工無能。めざすのは人工無意識。まず無意識があり、そこから意識が組織されるモデル。
最近、伊坂幸太郎さんの『SOSの猿』という本を読んだのですが、その本でユングの無意識のつながりについて書いてありました。
1994年にNTT/ICCで行われた「二の橋連画」と同じ種をきっかけにして、20年後の今、どのような樹が育つか実験してみた。
セッションのページへ http://cambrian.jp/tree/?p=musabi13b
Siggraph1994の「連画」ブースで、たまたまエリザベスという9歳の女の子が描き残した絵を種として、20人の連衆がミームの樹を育てた。
二の橋連画
http://renga.com/rengaarc/ninohashi-renga/ (連画時系列)
http://www.ntticc.or.jp/Archive/1994/Renga/index_j.html (NTT/ICC)
ワペラ36シミュレーター
http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D36S.html
月は狂気を呼び起こす、というのは本当だろうか。月の引力が直接脳に影響を及ぼすとは思えない。こう考えるとき、月と脳は切り離された単純な要素に還元されている。
ワペラの個々の細胞の振る舞いは単純だが、ワペラ全体を見渡すと、個々の単純さからは思いもよらない複雑なパターンがあらわれる。ばらばらに見える要素同士が、大きなパターンの中で関連していたりする。このような複雑性を、かつての科学は扱うことができなかった。
複雑系は、単純な要素へとばらばらに分けていく世界観では扱えないような、相互作用するシステムの挙動をとらえようとする領域だ。
味噌汁が冷える過程で、味噌が上空から見る雲のように見えることがある。エネルギーが散逸してでたらめが増す過程で、逆に秩序化する「散逸構造」が生じるためだ。
フライパンに味噌汁を入れ、安定したパターンを作ろうと試行錯誤した。熱を表面からうまく逃がし、冷えたかたまりが底に落ちるとパターンが出来はじめる。底の熱分布を均質に保つことで、ベナール対流によるきれいなロール構造が現われる。
指揮者や監督が、全体の設計を行うような制作プロセスをトップダウンという。
それに対して、トップに誰もいないが、勝手にパターンが作られていくことをボトムアップという。巨大なアリ塚に設計者はいない。
ワペラは、複雑系科学ではセルオートマトンと呼ばれるシステムだ。セルオートマトンが面白いのは、精緻で複雑なパターンを無数に隠し持っているのに、それに見合うだけの複雑な設計図がどこにもないことだ。これは驚くべきことだ。
13人の大工 『オートポイエーシス』(マトゥラーナ+ヴァレラ)より
パイ生地を練るとき、練りこまれた豆つぶはどんどん位置の変換にさらされ、はじめの位置がほんの少し違うだけで大きな結果の違いになっていく。これを「初期状態への鋭敏な依存性(Sensitive Dependence of Initial Conditions)」「初期値鋭敏性」などという。このような経過をたどるシステムは、砲弾がどこに落ちるかを計算するようなショートカットでは簡単に予測できない。ステップを踏んで計算してみるしかない。
「思いついた数からはじめよう」といってワペラはスタートしたけれど、これを初期状態という。もし初期状態が、ひとつのセルだけ違ったらどうなる?
何も変わらないこともある。
劇的に未来を変えてしまうこともある。
地球の裏側で蝶がはばたくと、台風が起こるかもしれない。これをバタフライ効果(butterfly effect)という。
ワペラを体験したみんなは、ワペラが規則に従った変化しかしていないのを体験的に知っているが、ワペラの変化はときにはでたらめだったり、パターンらしきものがあったり、単純だったりして、予測ができない。このようなシステムの性質を「カオス」という。
赤い三角形の領域は、ひとつの初期値の違いがもたらした変化。
セルオートマトンは、ある時点の状態を、推移規則にそって、次の時点の状態に書き換える循環だ。ワペラのはじめに試したいくつかの規則について、内部状態の変化を追ってみると、順次くりかえされる軌道が見えてくる。
電気通信のない時代に、遠く離れた出来事を「虫の知らせ」が伝えてくれたり、その人のことを考えていたらばったり駅で会ったりすることがある。因果の波及速度の限界(光速と言おう)を超えて、共振する事象がある。複数の事象が、因果では説明できない関連をもつことをシンクロニシティという。
シンクロニシティをセルオートマトンでイメージしてみる。ここで光速は45°の斜線で、それよりも横に寝た斜線パターンは光速よりも速い。この同時多発イベントは、近傍の前歴に用意されている。
セルオートマトンは、0か1の状態をもつ細胞のあつまりとして研究されてきた。
ウォルフラムは、その単純なセルオートマトンの分類を試みた。
クラス4は、秩序(クラス1,2)からカオス(クラス3)に至るぎりぎりの境界=カオスの縁にあらわれる。クラス4は「チューリングの万能計算機」になりうるという。
ワペラの地図は、領土を塗り分けるようにいくつかのパターンが入り組むことがある。
ワペラが「カオス的遍歴」と呼ばれる現象をとらえているからだ。
流行の地理的時間的分布、歴史地理空間におけるイデオロギー対立、流血鬼と新人類、脳のデフォルトモード、気まぐれ、などなどさまざまな現象がカオス的遍歴とかかわっている。
ワペラの冊子をめくった体験を思い出しながら、ふたたびストリートビューのように、ワペラの地図の内部に入ってみる。
ある遍歴アトラクタの領土の中(たとえば上の白っぽい領域)にいるとき、細胞たちはそこで使われているコードの部分と、状態分布しか見えない。そして突然、別のアトラクタの中(たとえば上の黒っぽい部分)にのみこまれる。
ストリートビューからすると、青天の霹靂のように、ある領土の内部から次の領土の内部に放り込まれることになる。これはとんでもない事件だ。
しかしこれを俯瞰すると、まるで次の領土が用意されていたかのようで、自分がそこでなにをしてもしなくても、いずれは自然にその変化はおとずれることがわかる。ほかにも同じような変化のパターンがあるからだ。もし世界をやりなおしても、どこかに知的生命は生まれ、いずれはコンピュータを作るんじゃないか、という自然過程の力動がイメージできる。
一方で、ワペラ遺伝子の中には千載一遇のような特別のパターンを潜在させているものがある(例は、いま準備しています)。たまたまみつけたかすかなきっかけが、その後の人類をある領土に連れていってくれるような発明、芸術作品がある。そのような事件は、この特別なパターンだろう。
ワペラは、千回のうち999回そうなる潜在性と、千回のうち1回しかそうならない潜在性の、いずれをも表現する。内部の視点からは、それらの違いがわからない。
課題:もしワペラコードを、ワペラのセル自身が変更する機構をもっていたら、どんなことが起こるか考えてみよう。
『イオロスの弦―自己組織系の音楽』安斎 1986
『セルオートマトンを彫る』安斎 1986
『コアウォーズの詩人たち』安斎 1987
まず私たちが二つの家をつくりたいと思っているとしよう。この目的のためにそれぞれ一三人の職人から成る二つのグループを雇い入れる。
一方のグループでは、一人の職人をリーダーに指名し、彼に、壁、水道、電線配置、窓のレイアウトを示した設計図と、完成時からみて必要な注意が記された資料を手渡しておく。職人たちは設計図を頭に入れ、リーダーの指導に従って家をつくり、設計図と資料という第二次記述によって記された最終状態にしだいに近づいていく。
もう一方のグループではリーダーを指名せず、出発点に職人を配置し、それぞれの職人にごく身近かな指令だけをふくんだ同じ本を手渡す。この指令には、家、管、窓のような単語はふくまれておらず、つくられる予定の家の見取図や設計図もふくまれてはいない。そこにふくまれるのは、職人がさまざまな位置や関係が変化するなかで、なにをなすべきかについての指示だけである。
これらの本がすべてまったく同じであっても、職人はさまざまな指示を読み取り応用する。というのも彼らは異なる位置から出発し、異なった変化の道筋をとるからである。
両方の場合とも、最終結果は同じであり家ができる。
しかし一方のグループの職人は、最初から最終結果を知っていて組み立てるのに対し、
もう一方の職人は彼らがなにをつくっているのかを知らないし、それが完成されたときでさえ、それをつくろうと思っていたわけではないのである。
観察者からみれば両グループとも家を建てているのであり、観察者は最初からそう思っている。
しかし後のグループの建てた家は、観察者の認知領域だけにある。
最初のグループによって建てられた家は、観察者のみならず職人の認知領域にもある。
コード化の仕方は明らかに二つの場合では異なっている。
実際前者のグループの場合、本であたえられた指令は、観察者が第二次記述するのと同じように家をコード化している。職人のコードの解読作業は、第二次記述された最終状態の構成に接近するよう、ものごとを合目的的に行うことである。家が職人の認知領域にもあるというのは、こういう意味である。
もう一方の場合では、十三人の職人にあたえられる同じ本のなかの指令は、家をコード化していない。これらの指令は、変化する関係の道筋を構成するプロセスをコード化しており、この変化の道筋がある条件下で遂行されれば、結果として相互作用領域をもつシステムが成立する。しかしこの相互作用領域は観望する観察者とはなんら本質的な関係をもたない。観察者はこのシステムを家と呼ぶはずであり、これこそ観察者の認知領域の特徴である。だがこれはシステムそのものの特徴ではない。
一方の場合コード化の仕方は観察者によって描かれた家の第二次記述と同型であり、事実この第二次記述を再現してもいる。この例は、観察者が自分自身でつくり出すシステムをコード化する典型例であり、
もう一方の例は、遺伝子や神経システムが有機体や行動をコード化する事例である。ここでのコードには第二次記述との同型性はなにも見つけられない。それというのも第二次記述は、観察者が結果として生じたシステムと相互作用し、そこからつくられているからである。そうだとするといったいどのような意味で遺伝システム、神経システムは環境にかんする情報をコード化していると言いうるのだろうか。情報の概念は、観察者が規定する選択領域で、観察者がもつ行動の不確かさの度合いにかかわっている。そのため情報の概念は観察者の認知領域だけに応用される。だからせいぜい言えるのは、遺伝システムや神経システムが成長や行動へと向かってコードを自己解読しているかのように観察者からみえるとき、実際にはそれらのシステムが自己特定化によって情報を生みだしているということである。
『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』
H.R.マトゥラーナ/F.J.ヴァレラ 河本英夫訳
p.235-236
セッションへ http://anzlab.com/musabi13a/indexj.htm
ワペラ36シミュレータを使って、レアな遺伝子を探そう!
http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D36S.html
遺伝子の文字列■名前 (出席番号か学籍番号)■コメント
遺伝子ごとに、上の順番で並べた一行の文字列を、コメント欄に投稿してください。(■は半角スペース)
例:
0011222E33344Y55A566677I788899FABBBCCCDDD9EFFGGGRHHHIIJJEJKKKLLL1MMMSNUNNOOOPPWQQQRRSSATTTUPUV4VVWWXXXYYZZ 安斎利洋(666)アポロ vs ディオニソス
この世が海や火山や雲や川や石ころだけでできていた頃
風景に見飽きた神様が「もうちょっと退屈でないものを作ろう」と思いたった
「生きている」の内部になる。輪になってペラペラめくるから「ワペラ」と呼ぶ。
1) 両隣の値を見る。
2) 両隣と自分の値から、次の時刻の値を計算する。(この変換のしかたが、ワペラのふるまいを決める)
3) 合図と同時に、計算した値のページをめくる。再び 1)へ帰る。
まず、2の変換を「両隣と自分の値の平均値をとる」としてみよう。(小数点以下は四捨五入する)
これはけっこう計算がたいへんだ。そこで、3つの値の和から、次の状態を決める参照表=ワペラコードを作っておくことにする。
0011122233344455566677788899
平均のほかにも、いろいろな変換表が作れる。たとえば、
1122233344455566677788899999
1112223334445556667778889900
などなどを表に書き入れて、みんなで共有する。これはいわば、ワペラの遺伝子だ。
さてこれらの遺伝子は、生きられるか。
そもそも、生きている、ってどういうこと?
ある遺伝子は、何回かやってみると動きが止まってしまう。
ある遺伝子は、動き続けるが、でたらめな数列がどんどん生み出される。
ある遺伝子は、繰り返しとでたらめがうまいことまざって、数を読み上げるとラップのように調子が良い。
計算もページめくりも疲れてきたので、コンピュータにまかせてみよう。
ワペラシミュレーター http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D10.html
ワペラシミュレーター(突然変異版)http://cambrian.jp/anzai/caws/CA1D10S.html
1012131415161718191012131415 1Xアグライア
0011171961418155323111121411 ヒラヒラアルゴス
0012223313444551566677978889 スパスパケルベロス
0121314815161711191911017165 石器時代の人々ウラノス
0011122234567555666279788789 ロボット生命クレイオーモダンⅡ
0011822234331455566846777899 シロクマリューク
さて、ワペラとは何なのか?
へ
あったかもしれない、あるかもしれない人間の様態、可能世界のミームを考えるのが可能人類学である。現世界を生きている人類は、人間の可能な様態のひとつを生きているにすぎない。ミームのブートストラップをほどいて、もう一度リブートする行為をわたしたちはrememe(リミーム)と呼び、通常れめめと発音する。たとえば「民族料理をれめめする」というように用いる。
「れめめウィキ」は、潜在的人類を網羅し、あるかもしれないすべての知識をあらかじめ含む万能の百科事典である。テキストはあなたを含めた全人類の脳の中にある。
「れめめウィキ」は、東京大学情報学環「カンブリアン講義」と、武蔵野美術大学基礎デザイン学科「オートポイエーシス論」におけるワークショップとして少しづつ成長し、今年も基礎デ生の脳の空騒ぎがあらたなる語彙を発掘した。
あせへぶい
うつうそよ
ちもてず
ててろぱ
とぶぉんぞ
ねだお
はたおのこ
ぱぺぇむ
ひのぱくし
ひょのず
ぴおせはそじ
ほさみほめ
ほょぁ泣く派
めびで
ナホバ・パクシ
ニエピ
ホョァナクハ
ラズョゾォ
コンペは、参加者それぞれが、三つのイイネ(♡)と、三つのヤバイネ(♢)を投票。
♡は好感のもてるもの。♢は、嫌い、怖い、キモイ、しかし気になる、という影の評価。
得点は、♡×♢ で決める。♡を集めても、♢がないとゼロになってしまう。多様決の思想に基づいた評価である。
ある形を種として蒔きます。ここから連想される形を、種から発芽するように配置します。さらにその形から触発される形をつなぎ、次々と形を生み出して木になっていきます。
このような生成プロセスを、カンブリアンゲームと呼びます。
まずひとりによるカンブリアンゲームの木を、周りから遮断された環境で作ってもらいます。彼らは、カンブリアンゲームに関する予備知識や先入観をもっていません。種として、ムサビの頭文字であるMを用いました。これは文字ではなく形として扱います。
次に数人が集まり、グループによるカンブリアンゲームを行います。種としてMが描かれた付箋を置き、そこから思いつくままに付箋をつけ、その派生関係を矢印で書き入れます。この付箋をリーフと呼びます。自分のリーフにつけてはいけない、という禁則を設けます。
そして出来上がった大きなカンブリアンの森を、それにかかわった人々がそれぞれ作ったひとりカンブリアンの木と対比してみました。
この進展を眺めると、人間が他者との相互作用で何を得ているのかが一目でわかります。たんにアイデアが足し算されるのではなく、パラダイムの掛け算が新しいアイデアを生み出すさまを読み取ることができます。
同時期に行われた早稲田大学における実験。こちらはWを種としています。
「ひとりと、他人(ひと)と、」-原始カンブリアン・ゲーム-ワークショップ(担当:中村理恵子)
http://rieko.jp/lab/?p=285
口上
たまたま台風の日に生まれたある生物個体の寿命が一日だったとしたら、彼にとって馴染み深い自然は台風だ。自然とは環境と適応の関係であり、どんな環境も「なつかしい自然」になり得る。
であるなら、もしわれわれの住む地上が、日常的にM9クラスの地震に見舞われるとしたら、それを自然とするヒトも可能ではないか。その場所で、人間はどのような生活、文化を築くだろう。調理器具、テーブル、食器、寝床、椅子、家、飛行機、工場、物流、お店、農耕、発電、交通機関、ライフライン、メディア、都市はどう可能か。
音楽はどう演奏され、絵画はどこに掲げられ、恋愛はどうなるだろう。
あらゆるデザインが問い直される。
土地の境界や所有、国家の概念も変わってくる。この思考を通して、いま自分たちが信じている美しさや良さの基準が、いかに恣意的な可能性の一部にすぎないかを気づく契機になるし、また実際これから災害とつきあっていく日常を再デザインするためのヒントも生まれるはずだ。
。
地球外生命《ぬ》との芸術交流は可能か。
人間は、ヒト以外の生物の表現に共感できるのか、またそれはアートなのか。
宇宙人に通じる「普遍芸術」という考え方は、なにをもたらすだろうか。
2009年に東大情報学環と武蔵野美術大学基礎デザイン学科で行ったワークショップ。
政府は22日、箱根山中に飛来し10年になる地球外由来物体に対し、芸術交流の実施を開始すると発表した。
2010年12月に飛来した物体は、国際調査チームによる非接触的内部探索により「知的生命か等価のもの」と結論づけられている。しかし物体外部にひらがなの「ぬ」に似たパターンが浮き出すなどわずかな入出力の形跡を除いて、飛来以来大きな変化のないまま10年が過ぎようとしている。
政府の諮問機関である「通称ぬとの接触に関する特別委員会」が一昨年まとめた意見書は、いかなる異文化も最初のコンタクトは芸術であるのが望ましいとの判断を示した。政府対策本部はこの答申を受け、今年度中に芸術交流を開始することを決めた。
それに先だち、全国の大学などにプランニングルームを開設し、「ぬ」に関するさまざまな仮説を前提にした作品プランを抽出する。たとえば、人間とは異なる記憶の仕組みや、感情の有無、個体集団構造の違いなどを考慮したうえで、「ぬ」に伝わる絵画や音楽を作る。
「ぬ」研究家を自称するシステムアーティストの安斎利洋氏は「身体、感情、言語を共有しない生命体と、はたして芸術が共有できるか。この問いは人間と表現の本質を逆照射するだろう」と語っている。(2020年10月23日朝刊より)
東京大学情報学環カンブリアン講義(2009年度)より
●00
考えるヒントとして、いくつか思考の道筋を示してみます。
●01
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-01.mp3
「ぬ」について、みんなひとこと。
●02
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-02.mp3
僕らがいま芸術と思っているものは、「わかる」とか「感動する」といった、人間の原理で作られている。芸術はもともと、人間よりも上位の、より完全なシステムだった。人間は芸術に対して、制約された不完全なものに過ぎなかった。
いまほど芸術が心を大事にしている時代はない。キリスト教芸術にとって、人間は不完全なもので、完全な世界の具現として芸術が作られた。完全なものを作るいろいろな原理が追求された。
20世紀には、人間の感性を裏切る芸術の実験がたくさん行われた。いまは、ぬるま湯のような芸術が流行る。
人間を感動させるのではなく、「ぬ」を感動させるというテーマで芸術を考えていけば、僕らはいま縛られている芸術の原理より、もっと大きなものに出会えるかもしれない。この課題は、芸術にとって大リーグ養成ギブスになりうる。
●03-04
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-03.mp3
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-04.mp3
「ぬ」にいちばん近い芸術のジャンルってなに?
「ぬ」に村上春樹はわかる?遠い?
なめくじの交尾がエロいのはなぜ?
なめくじも地上の生命なので,共通点がある。「ぬ」は、そうはいかないかもしれない。
なめくじのセックスを舞踊として眺める。
ぼくらも同じ、プリミティブな幾何学として、恋愛をしたり、異性を求めている。
「ぬ」が情報交換によって多様性を維持する生命なら、なめくじの幾何学は通じるかもしれない。「ぬ」がエロいと思うかもしれない。
●05
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-05.mp3
交流といえば、まずは飯を考える。「ぬ」と食う。「ぬ」を食う?
「ぬ」と舞踊を通して交流。しかし、ぬは身体をもっているか?
スポーツも舞踊も、身体を共有しているから共感可能だ。
「ぬ」がもし精神だけだったら、舞踊はありえない。杖道もできない。
いや、精神だけでもI/Oがある。インターフェースがあるのでは?
精神だけ、ソフトウェアだけでハードウェアのない生命ってある?
ハードウェアに拘束されず、プラットフォームを移しても動くソフトウェアは、身体をもたない、と言える。
いや、ソフトウェア上の情報の幾何学があれば、形があり、踊りがあるかもしれない。
●06
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-06.mp3
人は「声」でコミュニケーションするが、なめくじは「におい」でコミュニケーションする。
人間は体臭で化学コミュニケーションをしている。現代人は資生堂などのおかげで化学コミュニケーションしなくなっているが、楊貴妃も、薫の君も、体臭が魅力だった。
好まれる体臭と好まれない体臭がある。
粘菌は、離散と集合を、化学物質のコミュニケーションによって具現している。
化学物質は体臭と同じことだ。
あるときは集まりなさい、あるときは冒険しなさいという指令が行き渡る。
人間は、同族のにおいを好むとき(不安なとき)と、嫌うとき(冒険してほかのオスを求める)がある。粘菌と人間は、化学的に同じ原理だ。
「ぬ」と、匂いのコミュニケーションということも考えうる。
においの文法化。匂いのアート。香道がある。
●07
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-07.mp3
「ぬ」に絵画はわかるか?
絵って、宇宙共通か。 絵は投影。カメラオブスキュラは、宇宙のどこでも起こるか。
ボイジャーにのせた金のレコードの絵。ビジュアルで宇宙人にメッセージが刻まれているが、あれって地球外生命にわかるのかよ!あれって誰が決めた?地球のみなさん向け?予算とるため?
映画『コンタクト』で、宇宙人はじめにが送ってきたメッセージは「素数」。
素数は汎宇宙的。円、正弦波、複素数、といった数学は、共有可能な概念か?
数学と同じように絵画は共有できるのか?
『ご冗談でしょファインマンさん』にある話。火星人が眠る習慣がないとして、人間の夢のことを火星人に伝える、という思考実験。
夢、寝言、無意識は、自分の中の他者だ。
意識の単位は個人か。ぬの意識の単位は、固体とは限らない。
アリが夢見るとしたとき、アリの夢はどこにある?巣?個体?
それと同じことが「ぬ」との間におこる。
ソラリスは惑星全体が意識。しかし、対話がなければ意識はないのでは?
芸術と作品の単位はもう壊れている。クリストの作品を見ればわかる。
●08
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-08.mp3
絵は投影である。
3Dが2Dに投影されるのが絵である、とは限らない。
クロノスプロジェクタは、時間を平面に投影している。
クロノスプロジェクタ:
東大の研究室から出たメディアアート作品。
動画は静止画が堆積した立体として表現され、面を触ることで、時間軸をえぐることができる。
http://www.k2.t.u-tokyo.ac.jp/perception/KhronosProjector/index-j.html
絵の次元を、形と色彩のパラメータ空間として、座標がわずかに回転すると、印象派になる。そのように、絵は単純な3Dの2Dへの投射ではない。
「ぬ」は、どうやって世界を見るか。色を形にしているかもしれない。そういう考え方で、「ぬ」を通して、新しい絵を考えられないか?
幸村真佐男さんのHDR写真。HDRは、いろんな露出で撮影した複数の写真を、部分ごとに良いとこ取りで合成。全画面がノーマルな階調をもった写真になる。
普通は、覆い焼きのように、自然な写真をとるために使われる技法。
撮影が瞬時でも、部分によって時間差が出る。独特な表現になる。
幸村作品のどぎつい不自然な色。これを見ていると、これがよいと思える人間になる、それが狙いなんだよ、と幸村さんが言う。
写真的リアルとは、たまたまその仕組みの中で整合しているだけ。ある仕組みの中で整合していたら、そこに新しいリアルが生まれる。さまざまな絵画が可能になる。
●09
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-09.mp3
文学は? 万葉集は伝わる?
音になりうる文学と、なりえない文学がある。村上春樹より、万葉集は「ぬ」に伝わるだろう。
村上作品は伝達可能?
僕らだって、数十年しか生きていない。数十年分のブートストラップ情報を「ぬ」に与えれば、どんな文学作品も伝達可能じゃないのか?
シベリアの文学は、はじめは理解できないが、研究していくうちに解釈できるようになる。それと同じように、作品と作品を解釈するデータの総体を「ぬ」に渡す。
いや、シベリアの文学は人間が書いているからわかるんであって、「ぬ」に伝えるのは困難だ。
物語の時間構造。文学は時間発展。AならB、BならC。物語は人間的構造だ。
「MS-WORD」に要約機能がある。何%に要約せよ、と指定できる。
夏目漱石の「こころ」をやってみる。時間の関係が変わるように感じる。
間が抜けたり、前後が混乱する。人間関係がおかしくなったりする。
(MS-WORDの要約は、普通の機能なので、誰でも確認できる)
仮に優れた要約エンジンがあり、逐次的なことと、前後に独立したことを分離していたとする。すると、「ゴドーを待ちながら」は1文になるか。
Aが準備されていないとBにいけないことと、並列に処理できることを判定する。
並列でできることは1ステップに圧縮できる。
順番を踏まないと結論に至れない問題、本質的に時間が含まれる。
物語はすべてリニアに展開しているけれど、リニアに展開すべきことと、そうでなくていいものを分ける。
こんなところから、新しい映画の手法、文学の手法も生まれるかも。
ワードの要約機能で遊んでみた。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』を、MSWORDの要約作成機能で15%に圧縮。
●10
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-10.mp3
「小鳥の歌からヒトの言葉へ」岡ノ谷一夫。
鳥の歌の癖を調べると、文法性がある(マルコフ過程)。意味がはじめにあるのではなく、音の規則性が先にある。意味の構造は、あとから歌に対応する、という説。
万葉集は、しゃべるだけでも、「ぬ」にとって小鳥の歌として通じるかも。
音楽は通じるだろうか?モーツァルトは?
モーツァルトってなぜ好かれるの?モーツァルトはキチガイ?
音楽でないものが、「ぬ」にとって音楽と感じるかもしれない。
じゃ、音楽ってなに?
平均律:12音の音高比率が均等に配置されている。平均律によって、音楽を数学的論理で構成できるようになる。
平均律は、等価で交換可能な幾何学だ。ドとソの関係は、物理的。ミなど、ほかの音は本来恣意的だった。
バッハやモーツァルトは、平均律の可能性を探索しはじめた。
12の音が一度づつ現れる「音列」を作り、そこから音楽を構成するのが12音技法。
新ウィーン楽派、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクなど。調性のない無重力な音楽。
12音音楽は人間の直感的に感じる美しさからちょっとずれたところにある美しさ。
12音音楽は汎宇宙的か?12音音楽は「ぬ」にわかるか?
12音技法のような新しい秩序を、ぬを媒介にして、僕らが作ることが可能だ。
●11
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-11.mp3
「ぬ派」を立ち上げよう。
「ぬ」を媒介にして、新しい「芸術とはなにか」を再定義しよう。
「ぬ」がこうであったら、という前提と、「こんな作品ができる」というプラン。もしくは、作品そのものを持ち寄ろう。
以上、2010年1月13日 東京大学福武ラーニングスタジオにて
武蔵野美術大学オートポイエーシス論2009(PDF編集中)
(シールは多様決コンペ)
レンズによる像を求めるときに、
という戦略がある。
「ケータイのない未来」という問いが促す思考にも、類似した思考パターンがある。
(編集中)
MIB社は9日、神経接続技術を用いた新サービスを8月に開始すると発表した。
MIB開発部による「TABURE(タブレ)」は、AR(拡張現実)技術、神経接続技術を組み合わせた新技術で、一部の識者による強い反対運動のなか、製品化に踏み切った形になる。神経接続は情報だけでなく情動や既視感を直接伝達できる。通信インフラは、同社傘下のクラウドネットワーク「ええもばいる」を用いる。
MIB社は2011年、早稲田大学草原ゼミを卒業した仲間数名が起業し、意表をつくアイデアで急成長した。近年は米グーグル社買収の噂も流れている。
MIBによれば「TABURE」応用技術開発は、早稲田大学文化構想学部安斎ゼミ(2009年)に依頼した。未来の企業が過去の大学に研究を依頼する時間差産学連携は、全国でも始めて。なぜ過去の大学機関と連携が可能になったかについて、MIB会長は「彼らは来てもいない注文に応えるくらい、わけありません」と語った。
MIB会長はまた「彼らには社会的に有益な技術だけでなく、反社会的な製品企画も含め、思考実験とブリコラ手法によって可能性を抽出してもらった。反社会的なアイデアを募ったのは、われわれ自身が技術に飼いならされないための予防的対抗措置である」とも語り、暗に競合他社をけん制した。
新製品とサービスの詳細は明らかにされていないが、MIB会長は「すべて準備はできている。なにしろ、2009年7月末に仕上がっている」と成功への自信を見せた。
2015年(平成27年)7月9日 木曜日 朝刊一面
夕刊に、タブレについての解説記事が掲載されました。
MIB社のタブレ(TABURE)は、近年実用化があいついでいるBMI(Brain-machine Interface)の一種。これまでのBMI技術は、遠隔ロボットや装着可能ロボットなどを拡張された身体とする運動系BMIが主流であったのに対し、タブレは情動を対象とする。つまり、喜びや悲しみを脳から読み、脳に送ることができる。MIB社から公開されているタブレの仕様は、現在のところ以下のみ。
・脳の情動系から電子信号を引き出すことができる。
・脳の情動系に電子信号を与えることができる。
・装着離脱が容易である。
MBI社広報の談話によれば、タブレは「ほぼ非侵襲的(ひしんしゅうてき)」で「ヘッドフォンのように着脱ができる」。情動の種類や範囲について明らかにされていないが、「快、不快、安心、怒りといった基本的な感情を高速に読み取り・書き込むことが可能」だという。ただし「記憶、認知、意欲といった領域にも作用が及び、既視感、共感覚、幽体離脱、臨死体験などに作用が及ぶ場合がある」という。
タブレは、ケータイネットワークの標準入出力デバイスとして登録できるため、既存のARディスプレイや感覚アクチュエータと連携、あるいは置き換えが可能になる。
情動に作用するBMIの研究は、これまで「被るドラッグ」として忌避されてきた。一方で、これを熱烈に支持する業界もあり議論を呼んできた。あるメディア論者は「これまで人間が安定的に築いてきた人と記号との関係を、根本から揺るがすことになるだろう。それは、破壊的であると同時に構想的で、哲学の実験になることは間違いない」と語っている。
マネの「草上の昼食」も、デュシャンの「泉」も、ウォーホールの「キャンベルスープ」も、それが世にあらわされたとき「こんなものアートじゃねぇ」と言われてきました。今からみると、どれもみなカッコいいアート表現に見えますが、もしみなさんがその時代に生きていたら、おそらく「こんなものを認めたら人間はだめになる」と思ったことでしょう。
タブレも現在(2015年)、「これは人間をダメにする」といわれています。私自身ふとそんな気がするくらい、この危惧にはリアリティがあります。一方で私は、タブレが人間の表現の歴史を塗り替えるのではないか、という期待に胸をふくらませてもいます。
もしかするとタブレは、ただのデジタルドラッグとして葬られるのかもしれません。ドラッグが社会で機能するためには、きわめて自制的かつ放逸な文化システムが必要です。いわゆる未開文化の多くは、ドラッグを使いこなす物語を保持しました。現代社会はそれほど優れていないので、タブレを使う神話的な地盤がありません。
お願いした今回の企画は、タブレにとっても、私にとっても、みなさんにとっても、新しい神話を作る力を試される、試練であります。2015年の私は、今回の企画書をすでに読んでいて、それがきわめて優れていることを知っているにもかかわらず、時間の流れの礼儀に従って、みなさんの仕事に大いに期待し、楽しみにしています。
●恋愛から考える
自分を相手にほれさせる。相手にドーパミンを出させる。
でも、みんながそれをしたら、同じじゃん。
ドリーム小説は、自分の恋愛を傍観する。
配役に自分の名前を入れて置き換える。なりきった私。
没入と傍観の関係は? どっちが本当? 自分がふたり?
まるで幽体離脱。意識と身体が離れている。
恋愛小説を読ませるような入り口を作る(タブレの販売戦略として)
自分の想いが見えちゃう、信号になっちゃうのは面白い。
自分の妄想を見たい。
恋愛している錯覚を人工的に起こさせることは可能、という研究がある。
ときめき、つり橋効果。
むずかしいなまえの成分(あとで調べる) フェ見るエチルアミン(調べた)
「どきどき」を神経接続で送ると、恋愛が起こる。
誰とでも恋愛する。恋愛をたくさんする。
多婚OK。浮気ってなによ、みたいな。
彼氏と別に2D世界の彼氏と結婚して、自分の名前を変える、というFJ系の話。
需要はある!
社会が受容可能である=アクセプタビリティを考える。
BMIが普通になると、結婚はどうなるか。生物としての。
運命の人という概念は、どうなる。びびびをエンハンスするのか。
人間が残っていく必要はない。(これは新しい)
子はつくらなくていい。
いっぱつブレイクで終わり、もあり。
持続可能性=サステイナビリティを考える。
「人間」概念は発明。「人間2.0」もあり。
人間ってなに? 人間はどう定義する? 宗教まで行くよね。
●タブレアプリのテーマ
・恋愛はどうなる
・広告はどうなる
・芸術は可能?
・教育はどうなる。
・スポーツって可能?
・ビジネスは
・国家、戦争とか
●タブレで広告はどうなる
コントロールの問題。
主体ってなに?
主従とは?
他人の欲望と、自分の欲望の関係を問い直す。(ラカンのように)
神経接続の広告って可能?
商品のよさを疑似体験させる。
「椿」資生堂は、商品の良さを広告しているのか。
芸能人いっぱい並べれば、数うちゃあたる、という戦略。
この芸能人のようになりたい、か。
広告は、だましてるのか、正直なのか。
「だましだまされる」の共犯関係なのか。
よろこんでだまされます。
だまされていたら、ファイアウォールが働くというタブレはどう?
CMカット、邪心をカット?物欲カット?
広告ってそもそも、モノを売るものじゃない。
選ぶときの無意識にちょっと作用。認知度をあげているだけ。
ブランドを認知させる。無意識を作る。
MIBを広告に使ってほしくない。
消費者の自由はあるか? そもそも自由意志とは?
「商品の価値を良心的に宣伝」という基本が一応あって、
そこをいまのところはずしてない。
BMIを使うと、この基本が危うくなる。
●芸術 音楽 小説
神経接続はすでに行われている。BGMつきのニュースなど。
どんなコード進行でも、気持いい和音、として送ることができちゃう。
そんなのあり?
気持よけりゃ同じじゃん。(私は倫理観なし)
倫理=ロッカータブレットにすぎないんじゃない?
持続可能性。サステイナビリティを考えると?
気持良いより上位の層。
気持いいだけじゃない。
たとえば社会批判はBMIじゃ無理。
サブリミナル効果 刷り込み 記憶を作る。
協和音、不協和音、記号列
気持いいを送り続けていたら、気持いいが麻痺しちゃう。
拒否がはじまる。インフレ。
ひたすらに気持良くないものを作る。
結局いまとかわらない。つけても同じじゃん。
脳は慣れるから。
●恋愛テーマをもういちど
恋愛には休眠期間が必要。飽きないように。
BMIが自然になったら、引けない。
自分でコントロールできない。
時限装置を作る。離脱するための。
つけてる派とつけない派が出てくる。
別な情緒系が混在。
人間は、他人の脳とつながると活性化する。
脳の情動の部位を切除したサルは、外から見てあまり変化ない。
しかし、まわりのサルがパニックに陥る。情動は社会的。
作者の気持を伝えることができる。
作者の気持、ってなに?
夢を作れる
他人のつくった夢をもらう、夢マーケット(悪夢つき)
自分の見たい夢を作る。意外性は?
●教育+BMI
活性化、自己啓発、治療 うつからなおる、妄想をしずめる。
明示的洗脳
いじめられている子が、しあわせになる。
外出可能な引き込もり。外部にかかわる。「そとこもり」
王様体験
情緒を繰り返して、記憶を刷り込む。インプリンティング