幽霊ベートーベン、そして作者の死

「ゴーストベートーベン」の一件に関して飛び交うさまざまな言説につい口を挟みたくなってしまうのは、この問題が無視できないほど自分自身とリンクしているからに違いなく、それはすなわち「作者の死」の問題なのだと思う。

現 代芸術にかかわる人なら、ゴースト作家たる新垣隆さんのとった一部始終に不可解な行為はない。100年前の書法を緻密に組み上げたベタな作品を、現代のコ ンテキストで勝負する自分の作品群のひとつとして発表はできない。しかし仕立てられた別人格の作品として、思い切り世間ウケする作品を仕上げる遊びはさぞ 楽しかっただろうと想像できる。永井荷風が全力を傾けて書いた春本を、幾重にも匿名化して表した「四畳半襖の下張」を思い出す。

別人格たる今様ベートーベンの方は、仮想人格をどんどん怪物化していき、手に負えなくなったゴーストはこの物語を終わらせるべく、一部始終を世間に公表した。新垣さんの選んだゲームエンドは、幸いにも誠意ある行為として世間から好意的に受け止められているようだ。

芸 術家が自分自身という一種のブランドを貫き、芸術の閉社会のなかで評価を得ようとするのはどんなアーティストにも身に覚えのあることだろう。そのブランド こそ、ロランバルトが半世紀前に「作者の死」として死刑宣告した「作者」張本人だ。しかし作者はまだ死んでいないばかりか、作品をさしおいて作者だけが生 きていたりする。

「批評は今でも、たいていの場合、ボードレールの作品とは人間ボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、ということによって成り立っている。」(ロラン・バルト「作者の死」)

こ こが事件の核心だ。バルトが言う作者は、作品の作り手という素朴な意味ではなく、作品を成立させる強い幻影、作品さえそれに振り回される仮想人格のこと だ。聴衆や読者が作者のドラマを通して作品を評価するのも、作者が作風やメッセージの一貫性を貫こうとするのも、「作者」の仕業だ。障害者というドラマを 作品にリンクしたがる世間の感覚も、自分の実験的な作風から古い交響曲を遮断する感覚も、「作者」のなせる業なのだ。

バルトはその「作者」に対して、お前はもう死んでいると言った。バルトが未来に見ていたのは、作者のいないところ、あるいは作者と作者の間に宙吊りに産み落とされる作品そのものの生成力で、それこそまさに誰にも属さない交響曲が生まれ落ちた事態を写している。

「今後テクストは、その内部のあらゆるレベルから作者が姿を消すように作られ、読まれることになる。」(同)

「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。」(同)

バルトくらい、インターネット文化のありようをいち早く予見した人はないと思うのだが(「作者の死」は1968年)、逆にバルトのイメージに先導されて現在の電子的テクスト空間が形をなしたのかもしれない。いやこの言い方は違っていて、バルトもまた死すべき「作者」だ。

作 品は作者が作るわけではなく、作品そのものの利己的な遺伝子に生み落とされる。このイメージを共有できれば、ゴースト事件はそれほど不気味な話ではなく、 むしろAにもBにもつくれない作品がAとBの相互作用から生まれる例示にすぎない。そんなことは、カンブリアンゲームのなかで日常茶飯におきている。

連 画もまた、作者の死の具現として90年代に語られてきたし、シェア、オープンソース、コモンズなどなど、作者の間に生成されるコンテンツはインターネット とともに勢いづいてきたけれど、それと並行してソーシャルネットワークはますます肥大化した作者の住む場所にもなっている。もう一度、連画のことを考えよ うかと思っている。