緑青で描かれた舞台の松に、マスキングテープを貼って妨害する男がいる。男のシルエットはモヒカン刈りで、それが誰だかわからない。ふと光線があたって浮き出た男の顔は、こともあろうにこの芝居の主人公だった、というどんでん返しで舞台は幕になる。
rhizome: 舞台
切断された家
女の子が喜ぶので、ついついケーキとクリームをたっぷり切ってあげた。すると土地の所有権比率の関係で、実家の東面がケーキナイフで切り取られ、舞台装置のように片面だけ開いてしまった。気をつけて暮らさないと二階から落ちるから、業者に強化ガラスを嵌めてもらうと母親が言う。
早稲田の飲み屋で飲んでいる。帰ると言ったはずのヌクミズがこれから夕日の飲み屋に行くと言うので、友人といっしょにヌクミズの優柔不断を責めながら、夕日の坂を登ったところで白い根付を拾う。切断された家で霊気が体を通り抜けているからこういうものに出会うのだ、と酔ったヌクミズに説明する。
葬儀屋のスジナシ
建物の裏手から入るとそこはすでに舞台で、観客の目から隠れる位置に身を低く寝そべり、手には脱脂綿を握り締めているのは、自分が葬儀屋であり、なおかつ遺体でもある一人二役を負わされた即興演劇スジナシの演者だからだ。しかし、葬儀屋としての役で立ち上がり、閑散とした桟敷席の客を見ると、彼らは芝居に集中するふうでもない。どうしたらこいつらの心を捉える展開にできるのか。
見ながら出る映画
鎌田恭彦監督による作品の撮影が進行している。舞台上で、名前の思い出せない男優と女優がセックスしているのを、われわれは高い客席から眺めているのだが、どうも男と女の性器が入れ替わっているように僕には見える。誰もそのことに気づかない。
ドキュメントとフィクションの新しい融合を目指しているのだ、と鎌田監督が意気込みを語りはじめた。しかも編集とライブが交錯していて、撮影しながら編集し、それを観客に見せながら観客自身を登場させるのだと言う。
すると、なるほど僕がスクリーンに出てきた。石原裕次郎の歌を歌いながら、パステルで絵を描いているシーン。絵はまるで早回しのビデオのように、高速に仕上がっていく。この歌を歌った覚えがないし、この絵を描いた覚えもない。が、それはあきらかに僕の声と絵なので、とても恥ずかしい。隣でスクリーンを見ているRが「ああいう色の入れ方はタブーだ」と言う。自分の絵ではないが、余計なお世話だと思う。
次はRがビルの谷間の池で泳いでいるシーン。全裸なのにCGなので乳首や陰毛がない。鎌田さんが、もう1テイクこのシーンを撮りたいと言う。寒いからいやだとRが拒む。
次のシーンで僕は、宇宙連合軍に囲まれた敵役の総統になり、しゃべりながら顔の部分部分が自分になったりほかのものになったりする巧みなモーフィングに組み込まれる。雪の降りしきる現代の桜田門駅のあたりで、僕は殺られてしまい、よろめきながらさまよい、ついに力尽きて倒れると、半ば融けかかった雪の中で大根おろしに漬かった餅のように自分が見える。
確かに撮影済みの過去と撮影中の現在に切れ目がなく、これはすごい作品だ、と思いはじめたところで、先月若くして亡くなった日本画家某の葬儀会場にここを使いたいという人たちが雪崩れ込んできて、やむなくわれわれは撤収にとりかかった。
不意の舞台
公園の傍らの小高い丘の上で、われわれは待ち合わせている。しかし、隠れなければならない。丘の上に洞穴があり、そこに寝そべっている。穴のなかから見ると、出口はほんの数十センチメートルの横に伸びたスリットで、そこから出られるのか、そこから発見してもらえるのか、不安になっている。
棟をならべた向かいの校舎に、火が見える。火事だと思ってみんな騒ぎはじめるが、それは巧妙に作られた舞台の大道具で、風を含んで波打っている巨大な布と、投影機のようなもので作られていることが判明する。これはすばらしい、と言って拍手を送る。
舞台稽古が始まる。僕は主役の王様であるのに、まったく練習をしていない。そんなに台詞は多くないから大丈夫だろう。
舞台に立っている。咳払いをして、狂言風に「誰かある」「侍従はおらぬか。台本をもて」「タコクジラ、ブタゴリラはおらぬか」
うまくいったようだ。これで台本を持つ口実ができた。召し使いが台本をもってくる。あとはこれを読めばいい。
しかし、台本には細かい字で、ぎっちり台詞が書いてある。意味がわからない。つっかかって読めない。マイクロソフトなんていう単語も入っている。ここ、もう一回やらせてください。焦る。稽古を見ている観客のどよめきが聞こえる。