体のある部分に力を入れると浮遊が始まる。空中に留まりながら力の入れ方を工夫すると少しづつ高度を上げ、天井に触れるとそのまま張り付いていることができるようになった。(体育館の登り縄を最後まで登ったときの眺めも、こんなふうだった)
シャンデリアのあるホールの天井から見下ろすと、石造りの階段に木箱が置いてあり、人が群がっている。木箱には、対位法について書かれた冊子が何冊も無造作に詰まっている。本を手にとるとムラヴィンスキー全集の一部で、箱の底には和声法、指揮法などの巻もある。欲しい本を積み上げて階段に座って読み始めると、哲学と題された巻だけはただの箱で、小石や大きな黒い蟻や布切れなどがガラガラと入っている。ほかの巻をふたたび開くと、同じようながらくた箱に変わっている。箱を覗いている女に「これが本に見えますか」と尋ねるが、日本語も英語も通じない。
rhizome: 箱
さえずりカード
twitterのつぶやきがカード状の物体になっていて、出現したり消えたりするたびに感情がわきあがる仕組みになっている。どういう原理を使っているのか、なかなかわからない。見る方向によって感情が違うのがヒントだよね、とviscuitさんが言う。
天井の高い体育館でミサが始まる。中継ブースのあたりで、車椅子の男のケータイ着信音が鳴り止まないので、スタッフが車椅子を外に押し出そうとしている。
いさかいが苦手な僕と僕の友人の小さい生き物は、隣の部屋に隠しておいた小箱から濃縮ジュースに関する秘密文書を取り出し、ジュースの仕組みについて技術的な相談を始めた。小さい生き物は、感情をオブジェクトにしないから不愉快が生まれるんだ、と言う。
操車場の樹林
暗い地下鉄の操車場に、針葉樹が整然と生えている。油と鉄粉で覆われた黒い地面から、はるか先端が見えないほどの木々が聳え、その先端を支えにして地上が乗っている。
nanayoは地上の屋台で買い物をしている。鍛冶屋が手で作った金物は、ひとつひとつ木箱に入っている。nanayoは紙のように薄く延ばした鉄のパレットナイフを選んで買ったそうだ。花火屋からは、茶巾に導火線のついた花火もいくつか買った。これから向かう先が華やぐから、そう言って僕もいくつか花火を買う。
入れ子携帯
志村三丁目の駅を降り歩いて家に帰ろうとしていると、今日は特別な日とばかり父が得意げにタクシーを止めた。白いワゴンのタクシー内部は雑然としていて、ところどころ水溜りもあり、しかも途中の停留所から人を相乗りさせようとする。丸顔の小柄な運転手は、これはバスだからしかたないと開き直る。父は携帯電話で孫に電話をかけようとしているが、なかなかかからない。僕は、携帯の茶色い箱の中から、もうひとつ小さい箱を取り出し、掌の中でダイアルをプッシュする。父はいつのまにか、大きい方の箱を棺にして中に入ってしまい、中から「まだかからないのか」などと文句を言いはじめる。バスのようなタクシーは志村坂上に到着し、そこでわれわれは降りることになるのだが、しかしこの場所は出発点より家から遠いではないか。今日は特別な日だからそれでいいのか、とも思う。
ThinkPadの川海老
ThinkPadの深いディレクトリに、ここで見せるべきプログラムが入っているにもかかわらず、その起動方法がまったく思い出せない。ディレクトリを一段降りていくたびに、記憶が朧げになる。なかばやけになって、キーボードの下にあるもうひとつの蓋をあけると、小箱のような水槽から川海老があふれてしまっている。いくつか手で掴んで戻すが、ほとんどは動きもせず死んでいるようだ。こんな作りじゃ、鞄の中で水がこぼれてしまうじゃないか、と、いい加減な設計者に対する怒りがこみ上げてくる。
近森式便所
体育館のような展覧会場に、近森さんの作ったトイレがあるという。そういえば、ちょうど用を足したかったところだし、ちょうどいい。何人かの小学生が、話しながらトイレから出てきた。彼らは、これが作品だということを理解しただろうか。
男子用の便器が並び、その間仕切りにスピーカーが埋め込まれている。便器の中のアクリルの小箱をめがけておしっこをかけると、左右から痛快な低音に挟まれる。なるほどそういう作品ね、と、アクリルをめがけたおしっこの勢いが落ちて放物線がはずれた瞬間、目の前の壁がぐらぐらとゆらぎはじめ、驚きのあまりおしっこが止んでしまった。その壁が液晶ディスプレイで出来ていることにようやく気づくと、まんまと仮想風景にだまされて生理現象までコントロールされてしまったことが、悔しくてならない。