地球外生命《ぬ》との芸術交流は可能か。
人間は、ヒト以外の生物の表現に共感できるのか、またそれはアートなのか。
宇宙人に通じる「普遍芸術」という考え方は、なにをもたらすだろうか。
2009年に東大情報学環と武蔵野美術大学基礎デザイン学科で行ったワークショップ。
「ぬ」の心をとらえよ
地球外生命との芸術交流始まる
政府は22日、箱根山中に飛来し10年になる地球外由来物体に対し、芸術交流の実施を開始すると発表した。
2010年12月に飛来した物体は、国際調査チームによる非接触的内部探索により「知的生命か等価のもの」と結論づけられている。しかし物体外部にひらがなの「ぬ」に似たパターンが浮き出すなどわずかな入出力の形跡を除いて、飛来以来大きな変化のないまま10年が過ぎようとしている。
政府の諮問機関である「通称ぬとの接触に関する特別委員会」が一昨年まとめた意見書は、いかなる異文化も最初のコンタクトは芸術であるのが望ましいとの判断を示した。政府対策本部はこの答申を受け、今年度中に芸術交流を開始することを決めた。
それに先だち、全国の大学などにプランニングルームを開設し、「ぬ」に関するさまざまな仮説を前提にした作品プランを抽出する。たとえば、人間とは異なる記憶の仕組みや、感情の有無、個体集団構造の違いなどを考慮したうえで、「ぬ」に伝わる絵画や音楽を作る。
「ぬ」研究家を自称するシステムアーティストの安斎利洋氏は「身体、感情、言語を共有しない生命体と、はたして芸術が共有できるか。この問いは人間と表現の本質を逆照射するだろう」と語っている。(2020年10月23日朝刊より)
「ぬ」プロジェクト会議の模様
東京大学情報学環カンブリアン講義(2009年度)より
●00
考えるヒントとして、いくつか思考の道筋を示してみます。
- モーツァルトの音楽は犬や猫も理解するという俗説があるけれど、モーツァルトをわかる《ぬ》って、想像できる?
- 人類の過去の芸術を、《ぬ》に翻訳する試みは可能?
- 物語は《ぬ》にとって意味がある?
- 逆に《ぬ》にとって意味がある物語はどういう構造をもつ?
- 空間時間のスケールをどう合わせ込む?
- 時間が空間に畳み込まれていてもいい?
- 写真は宇宙全般にジェネラルな表現なのか?
- 象徴や記号を、どうやって伝達する?
- 記憶をもたなかったり、記憶がめちゃくちゃ強力な《ぬ》にとって、リズムは僕らが感じるリズムと同じ?
- 《ぬ》の意識は、脳とBMI接続したマシンとのハイブリッドかもしれない。
- 《ぬ》は、数学、科学、芸術というふうに領域をわけていないかも。
- 《ぬ》はゲームを理解する?
- 《ぬ》と杖道ができる?
●01
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-01.mp3
「ぬ」について、みんなひとこと。
「ぬ」は血管?
「ぬ」の文字は、ずっと書いているとゲシュタルト崩壊する。10年見ているうちにわからなくなっているかも。
そもそも、自分たちは芸術をどう楽しんでいるか、を考えてしまう。
この問いは、単純に考えないと面白くない。
そもそも「ぬ」は、メッセージではないのでは?
人間は、相手に生命と認識されるかどうか。高度な生命にとって、地上の生命は単純すぎて自然現象の一部に見えたりして?
「ぬ」を「ぬ」に分節化してしまうが、実は「ぬ」の微妙な違いに意味があるかもしれない。
「ぬ」は日本語では否定。「ぬ」はもっと昔やってきていて、人類は「ぬ」に否定を学んだ。マレーシアの「ぬ」を買ってきた。着彩した影絵の人形。
「ぬ」は形のない亡霊。駒場にも亡霊がいる。芸術は亡霊との交流である。
「ぬ」の形は、地球環境との相互作用であって、別の場所では別の形を現しただろう。
●02
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-02.mp3
僕らがいま芸術と思っているものは、「わかる」とか「感動する」といった、人間の原理で作られている。芸術はもともと、人間よりも上位の、より完全なシステムだった。人間は芸術に対して、制約された不完全なものに過ぎなかった。
いまほど芸術が心を大事にしている時代はない。キリスト教芸術にとって、人間は不完全なもので、完全な世界の具現として芸術が作られた。完全なものを作るいろいろな原理が追求された。
20世紀には、人間の感性を裏切る芸術の実験がたくさん行われた。いまは、ぬるま湯のような芸術が流行る。
人間を感動させるのではなく、「ぬ」を感動させるというテーマで芸術を考えていけば、僕らはいま縛られている芸術の原理より、もっと大きなものに出会えるかもしれない。この課題は、芸術にとって大リーグ養成ギブスになりうる。
●03-04
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-03.mp3
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-04.mp3
「ぬ」にいちばん近い芸術のジャンルってなに?
「ぬ」に村上春樹はわかる?遠い?
なめくじの交尾がエロいのはなぜ?
なめくじも地上の生命なので,共通点がある。「ぬ」は、そうはいかないかもしれない。
なめくじのセックスを舞踊として眺める。
ぼくらも同じ、プリミティブな幾何学として、恋愛をしたり、異性を求めている。
「ぬ」が情報交換によって多様性を維持する生命なら、なめくじの幾何学は通じるかもしれない。「ぬ」がエロいと思うかもしれない。
●05
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-05.mp3
交流といえば、まずは飯を考える。「ぬ」と食う。「ぬ」を食う?
「ぬ」と舞踊を通して交流。しかし、ぬは身体をもっているか?
スポーツも舞踊も、身体を共有しているから共感可能だ。
「ぬ」がもし精神だけだったら、舞踊はありえない。杖道もできない。
いや、精神だけでもI/Oがある。インターフェースがあるのでは?
精神だけ、ソフトウェアだけでハードウェアのない生命ってある?
ハードウェアに拘束されず、プラットフォームを移しても動くソフトウェアは、身体をもたない、と言える。
いや、ソフトウェア上の情報の幾何学があれば、形があり、踊りがあるかもしれない。
●06
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-06.mp3
人は「声」でコミュニケーションするが、なめくじは「におい」でコミュニケーションする。
人間は体臭で化学コミュニケーションをしている。現代人は資生堂などのおかげで化学コミュニケーションしなくなっているが、楊貴妃も、薫の君も、体臭が魅力だった。
好まれる体臭と好まれない体臭がある。
粘菌は、離散と集合を、化学物質のコミュニケーションによって具現している。
化学物質は体臭と同じことだ。
あるときは集まりなさい、あるときは冒険しなさいという指令が行き渡る。
人間は、同族のにおいを好むとき(不安なとき)と、嫌うとき(冒険してほかのオスを求める)がある。粘菌と人間は、化学的に同じ原理だ。
「ぬ」と、匂いのコミュニケーションということも考えうる。
においの文法化。匂いのアート。香道がある。
●07
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-07.mp3
「ぬ」に絵画はわかるか?
絵って、宇宙共通か。 絵は投影。カメラオブスキュラは、宇宙のどこでも起こるか。
ボイジャーにのせた金のレコードの絵。ビジュアルで宇宙人にメッセージが刻まれているが、あれって地球外生命にわかるのかよ!あれって誰が決めた?地球のみなさん向け?予算とるため?
映画『コンタクト』で、宇宙人はじめにが送ってきたメッセージは「素数」。
素数は汎宇宙的。円、正弦波、複素数、といった数学は、共有可能な概念か?
数学と同じように絵画は共有できるのか?
『ご冗談でしょファインマンさん』にある話。火星人が眠る習慣がないとして、人間の夢のことを火星人に伝える、という思考実験。
夢、寝言、無意識は、自分の中の他者だ。
意識の単位は個人か。ぬの意識の単位は、固体とは限らない。
アリが夢見るとしたとき、アリの夢はどこにある?巣?個体?
それと同じことが「ぬ」との間におこる。
ソラリスは惑星全体が意識。しかし、対話がなければ意識はないのでは?
芸術と作品の単位はもう壊れている。クリストの作品を見ればわかる。
●08
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-08.mp3
絵は投影である。
3Dが2Dに投影されるのが絵である、とは限らない。
クロノスプロジェクタは、時間を平面に投影している。
クロノスプロジェクタ:
東大の研究室から出たメディアアート作品。
動画は静止画が堆積した立体として表現され、面を触ることで、時間軸をえぐることができる。
http://www.k2.t.u-tokyo.ac.jp/perception/KhronosProjector/index-j.html
絵の次元を、形と色彩のパラメータ空間として、座標がわずかに回転すると、印象派になる。そのように、絵は単純な3Dの2Dへの投射ではない。
「ぬ」は、どうやって世界を見るか。色を形にしているかもしれない。そういう考え方で、「ぬ」を通して、新しい絵を考えられないか?
幸村真佐男さんのHDR写真。HDRは、いろんな露出で撮影した複数の写真を、部分ごとに良いとこ取りで合成。全画面がノーマルな階調をもった写真になる。
普通は、覆い焼きのように、自然な写真をとるために使われる技法。
撮影が瞬時でも、部分によって時間差が出る。独特な表現になる。
幸村作品のどぎつい不自然な色。これを見ていると、これがよいと思える人間になる、それが狙いなんだよ、と幸村さんが言う。
写真的リアルとは、たまたまその仕組みの中で整合しているだけ。ある仕組みの中で整合していたら、そこに新しいリアルが生まれる。さまざまな絵画が可能になる。
●09
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-09.mp3
文学は? 万葉集は伝わる?
音になりうる文学と、なりえない文学がある。村上春樹より、万葉集は「ぬ」に伝わるだろう。
村上作品は伝達可能?
僕らだって、数十年しか生きていない。数十年分のブートストラップ情報を「ぬ」に与えれば、どんな文学作品も伝達可能じゃないのか?
シベリアの文学は、はじめは理解できないが、研究していくうちに解釈できるようになる。それと同じように、作品と作品を解釈するデータの総体を「ぬ」に渡す。
いや、シベリアの文学は人間が書いているからわかるんであって、「ぬ」に伝えるのは困難だ。
物語の時間構造。文学は時間発展。AならB、BならC。物語は人間的構造だ。
「MS-WORD」に要約機能がある。何%に要約せよ、と指定できる。
夏目漱石の「こころ」をやってみる。時間の関係が変わるように感じる。
間が抜けたり、前後が混乱する。人間関係がおかしくなったりする。
(MS-WORDの要約は、普通の機能なので、誰でも確認できる)
仮に優れた要約エンジンがあり、逐次的なことと、前後に独立したことを分離していたとする。すると、「ゴドーを待ちながら」は1文になるか。
Aが準備されていないとBにいけないことと、並列に処理できることを判定する。
並列でできることは1ステップに圧縮できる。
順番を踏まないと結論に至れない問題、本質的に時間が含まれる。
物語はすべてリニアに展開しているけれど、リニアに展開すべきことと、そうでなくていいものを分ける。
こんなところから、新しい映画の手法、文学の手法も生まれるかも。
ワードの要約機能で遊んでみた。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』を、MSWORDの要約作成機能で15%に圧縮。
するとその地獄の底に、カン陀多と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。
御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このカン陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。
御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、
まっすぐにそれを御下しなさいました。ややしばらくのぼる中に、とうとうカン陀多もくたびれて、もう一たぐりも
上の方へは のぼれなくなってしまいました。カン陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも
出した事のない声で、「しめた。
そこでカン陀多は大き な声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカン陀多のぶら下っている 所から、ぷつりと
音を立てて断れました。ですからカン陀多もたまりません。
●10
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-10.mp3
「小鳥の歌からヒトの言葉へ」岡ノ谷一夫。
鳥の歌の癖を調べると、文法性がある(マルコフ過程)。意味がはじめにあるのではなく、音の規則性が先にある。意味の構造は、あとから歌に対応する、という説。
万葉集は、しゃべるだけでも、「ぬ」にとって小鳥の歌として通じるかも。
音楽は通じるだろうか?モーツァルトは?
モーツァルトってなぜ好かれるの?モーツァルトはキチガイ?
音楽でないものが、「ぬ」にとって音楽と感じるかもしれない。
じゃ、音楽ってなに?
平均律:12音の音高比率が均等に配置されている。平均律によって、音楽を数学的論理で構成できるようになる。
平均律は、等価で交換可能な幾何学だ。ドとソの関係は、物理的。ミなど、ほかの音は本来恣意的だった。
バッハやモーツァルトは、平均律の可能性を探索しはじめた。
12の音が一度づつ現れる「音列」を作り、そこから音楽を構成するのが12音技法。
新ウィーン楽派、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクなど。調性のない無重力な音楽。
12音音楽は人間の直感的に感じる美しさからちょっとずれたところにある美しさ。
12音音楽は汎宇宙的か?12音音楽は「ぬ」にわかるか?
12音技法のような新しい秩序を、ぬを媒介にして、僕らが作ることが可能だ。
●11
http://cambrian.jp/iii09/nu100120/iiianznak100120-11.mp3
「ぬ派」を立ち上げよう。
「ぬ」を媒介にして、新しい「芸術とはなにか」を再定義しよう。
「ぬ」がこうであったら、という前提と、「こんな作品ができる」というプラン。もしくは、作品そのものを持ち寄ろう。
以上、2010年1月13日 東京大学福武ラーニングスタジオにて
「ぬ」との芸術交流企画案集
武蔵野美術大学オートポイエーシス論2009(PDF編集中)