たとえば小説が作られ読者に届けられるまでの過程は、このような階層的なイメージでとらえることができます。
アイデア
↓
作者
↓
作品
↓
読者
連画、カンブリアンゲームに参加し、その作動の内部から体験するさまざまな心の動き、たとえば好きな作品にどうしても作品を付け加えたくなる気持、自分の作品に意外な展開が繰り広げられたときの興奮などは、上に書いた階層的なマップから説明することができません。ここでは、
作品→作者→作品→作者→作品→作者→
という単層の世界を舞台とする循環があります。この循環を成り立たせている要素をさらに純化するなら、作品と作者は
行為→触発→行為→触発→行為→触発→
と書き換えることができます。
作るもの作られるもの、意味するものと意味されるもの、環境と私、などなどが階層をなし、コントロール可能な単方向の工程で閉じる構造をアロポイエーシスと呼びます。産業はアロポイエーシスとして発達しましたし、創作における「作者→作品→読者」という構造も近代的な産業の中で培われました。
しかし文化の内部的な醸成は、むしろ連画やカンブリアンゲームと同じように行為と触発の連鎖反応回路を発達させる過程を何万年も前から脈々と続けていて、これはオートポイエーシスそのものです。
そこでは、「作者→読者」で作品制作が終端に達することはなく、「読者→作者」として再び立ち上がる手が、エッシャーの絵のように永久に終わらない絵を描き続けます。
階層的で単方向のアロポイエーシスと、循環的な生成が回路をなすオートポイエーシスを、対比的に考えてみます。
(続き編集中。以下はハンドアウトです)
アロポイエーシス vs オートポイエーシス
allo:異質の auto:自分の poiesis:制作
作る行為→生成物
作るものと作られるものが別の層にある。allopo.
作る行為→生成物→作る行為→生成物→…(循環する)
構成要素を作り出すプロセスのネットワークが、
自分自身を作ったネットワークを常に再生産し続ける閉じたネットワーク。
autopo.
allopo.
作者→作品→鑑賞者
デザイナー→プロダクト→ユーザー
著者→出版社→読者
autopo.
連画・カンブリアン
作者→作品→作者→作品→作者→作品→ 触発の連鎖
読者、作者が同じ層にいる Consumer Generated Media
外部に存在理由がある 原理原則はあらかじめ決まっている allopo.
外部に存在理由がない 入出力がなくても勝手に回っている autopo.
(妄想のように)(閉じたロッカーのように)
人間が巣礎を作り、ミツバチが巣礎に巣を作る allopo.
人間が巣礎を作り、巣礎の上に人間の巣礎を作る。autopo.
トップダウン 計画先行 俯瞰的 allopo.
ボトムアップ 無計画 局所的行為が全体を自己組織化 autopo.
ムクドリの群れ、アリの巣、セルオートマトン
ある道具を見て
これは釘を打つ道具である(属性、意味、シニフィエ) allopo.
鉄の頭に木の柄がついている(モノ、シニフィアン、ブリコラージュ) autopo.
知識伝達のための教室 allopo.
知識創出・追体験のためのワークショップ autopo.
人間の幸福を追求する allopo.
(人間らしさはあらかじめ方向がある)
人間の幸福を発明する autopo.
(無数の潜在的な人類を考えることができる)
(共進化 再領土化 カオス的遍歴)
アロポイエティックな木
- 合意形成
- ハーモニック
- 整合的な一貫性をめざす
- カテゴリー
- 演繹的
- 文法的
- セマンティクス
- 擬装不可能
- 制約解消による作動
- エラボレーション
- シニフィエ主導
- 他者を飲み込んでいく
- サイエンス
オートポイエティックな木
- 合意解体
- ポリフォニック
- 断片が緩やかに連携する
- 放射状カテゴリー
- 帰納的
- コーパス的
- カップリング
- 擬装可能
- 結晶化による成長
- ブリコラージュ
- シニフィアン主導
- 他者への跳躍
- アート
ボルヘス「古代中国の百科事典」にある動物分類法
「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話 に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)賂蛇の毛のご く細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」
「私」の入れ子細工
自分がいて、仲間がいて、教室の中で話をしているとき、共有するひとつの世界があり、そこにAやBやCが包まれているイメージを思い描く。
たとえば拡張現実を考えるときも、みんなが共有しているひとつの現実があり、そこに情報を付加すればよい、と考える。
触覚的自我では、自己と環境の境界線が自明ではない。安定した基盤としての環境があり、そこをベースとして私がいるのではなく、どこを基礎にしてもよいような、どこにも基礎がないような、宙吊りの感覚を味わう。
ニクラス・ルーマンは「互いに他を環境とする二つのシステムの関係」といって、「構造的カップリング」を説明する。
あらかじめ世界が用意されていてそこに私たちがいるのではなく、私を環境とするものたちが私の環境として私をとりかこみ、複雑に浸潤しあった「私」たちの相互作用として世界がつくられている。
参考
詩的工学の提言──芸術と工学の相互越境(電子情報通信学会誌 90(12), 1086-1090, 2007-12-01)