rhizome: 隣人

五線譜の川

河口付近の三角州地帯に住んでいると、ラッパ形の噴出機が絶えず砂を撒いているので、自分の敷地と他人の敷地の境界線はいつも砂に覆われしまう。いつのまにか部屋に紛れ込んできたルームサービスが、冷蔵庫をあけて「ビールはいかがですか」などと言うが、それは僕の私物だ。靴底でベランダの砂を払うと黄色い地面があらわになり、そこには小節の区切り線があらかじめ引かれた五線譜がある。

(2013年1月20日)

実験ハウス

居酒屋の二階で、新田君はブルドッグのようにたっぷりとした顎を床板に乗せ、体を冷やしている。彼が結婚したことを母から聞いていたので、新居はどこか尋ねると、城北高校の近くだと言う。その場所はよく知っているよ。
新しい家のいちばん奥の部屋には、壁に塗りこめられた螺旋階段があり、それは各階につながっているので、ときおり上下の住人が行き来するのが見え、部屋に紛れこんでくることさえあると言う。設計者はプライバシー感覚の革新を狙っているのだが、思想が壁に塗りこんである家に住むのはごめんだね、と新田君が言う。

(2012年8月20日その1)

冷凍花束

窓に差し込む照り返しが季節によっていろいろな色に変わる理由を、今日まで考えたことがなかった。大きな花壇のある隣家の住人が、明日引っ越すということで挨拶にやってきて、この家の花が季節ごとに色を塗り替えていたのかと得心する。お別れの寂しさを保存するには生より冷凍のほうがいいから、と言って凍った切花をくれた。
あの花壇はどうするのですか、と訊ねると、卒業して離れ離れになる人々が記念撮影をするのでそのままにしておくと言う。霜のついた脆い花びらを壊さず解凍するにはどうしたらいいか考えていると、卒業する人々から次々凍った花をもらい、大きな霜の花束になってしまう。
荷造りでごった返している隣家を覗くと、塀に大きな穴があいていて、その向こうに広がる極彩色の庭には、厚く塗られた半乾きの油絵具が、植物として繁茂している。

(2001年12月17日)

急勾配の隣人

家の南側に庭を造ったものの、腑甲斐ない父親は今になって隣人への挨拶をためらっている。工事してしまった後でなんて言ったらいいのか、などと口篭もっている。まったくしようがないから俺が行ってくる、と着替えをして出かけようとするが「半ズボンはやめなさい」と母親。脱ぎ捨ててあった作業服をとりあえずはくと、工事担当者に「性感帯に気をつけて」と言われる。気持の悪い男だ。
隣人宅の玄関は不自然な急勾配の上にあり、引き戸をあけると待ち構えていたようにおばさんが奥の座敷で「どれ、見に行くか」と立ちあがる。何か一言挨拶しようとするのだが、この家の床はちょうど僕の鼻あたりの高さで、しかも床から川のように水が流れてきて、口を開くと危うく水を飲みそうになる。いつのまにか我が家の庭に向かっているおばさんを追いかけようとするが、戻るのが困難なほど玄関の外は急傾斜で、しかも玄関のまわりにある棚につかまると、オロナインの白い瓶などがどんどん下に落ちて行く。こんな環境で育ったから、ここの娘は特殊な反射神経をもった運動選手になれたのだ、と思うが、しかしなんの競技だったか思い出せない。

(1999年11月15日)