rhizome: 本

ムラヴィンスキー全集

体のある部分に力を入れると浮遊が始まる。空中に留まりながら力の入れ方を工夫すると少しづつ高度を上げ、天井に触れるとそのまま張り付いていることができるようになった。(体育館の登り縄を最後まで登ったときの眺めも、こんなふうだった)
シャンデリアのあるホールの天井から見下ろすと、石造りの階段に木箱が置いてあり、人が群がっている。木箱には、対位法について書かれた冊子が何冊も無造作に詰まっている。本を手にとるとムラヴィンスキー全集の一部で、箱の底には和声法、指揮法などの巻もある。欲しい本を積み上げて階段に座って読み始めると、哲学と題された巻だけはただの箱で、小石や大きな黒い蟻や布切れなどがガラガラと入っている。ほかの巻をふたたび開くと、同じようながらくた箱に変わっている。箱を覗いている女に「これが本に見えますか」と尋ねるが、日本語も英語も通じない。

(2015年7月21日)

水に弱い文明

家の中のあちこちに、水が溢れている。友人が、開いた本の上に熟したトマトを置いていった。そのせいで、本がどれもみな濡れている。僕はそのことを猛烈に怒っている。鈴木健が肩に手を置いて宥めるように「水を必要とする生物である人間が、なんで水に触れちゃいけない紙の本を発明したのか、それを考えるべきですよ」と言う。

(2014年7月1日)

老婆のいる廊下

部屋ほどの広さのある暗い廊下に、割烹着を着たおたふく顔の老婆があらわれる。薄く開いた戸から光が差し、顔だけ露出オーバーで白く抜けている。僕はぞっとして、老婆から逃れるために「あきらさんはいますか」とでたらめの名前を言った。人違いを装ったはずなのに、白い老婆は「あきら、あきら」と奥の部屋の実在のあきらを呼びはじめる。

ここまでが「あまちゃんの実家は忍者だった」にはじまる縦書き一段組の最後で、縦書き四段組みの後半は、ここから四つの物語に分岐する。

(2013年12月17日その1)

必読書の樹

鮮やかな蜜柑色の皮膚をもつ子供を膝に乗せて、彼に絵本を読ませようとしている。彼は親戚たちの会話に退屈しきっていたので、部屋を埋め尽くす僕の本棚に目を見開いている。しかしそこにあるのは、インターネットにある表紙ばかりの本で、取り出しても中身がない。せめて彼の人生のために、ある本の表紙から次に読むべき数冊の表紙を次々と配置していき、ついにいま僕が読んでいる本にまで至る経路の樹形地図を作った。

(2013年3月16日)