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8. レシピ

『Cape-X』 Mar.& Apr. 1996 掲載

安斎利洋

 

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料理の本には、うるさい方だ。料理にうるさいんじゃなくて、本にうるさい。もちろん見るからにおいしそうな写真とか、編集の巧みさとか、重要かつ明白な判断基準はあるけれど、なんといっても作り方のアルゴリズムを示す指令書ともいうべきレシピがどう書かれているかが肝腎だ。

どうしてもこの本のこの料理人の言う通り作ってもおいしいものができないというレシピと、どうやってもそこそこ旨いものができるというレシピがあるのだ。それは、料理人の作る料理そのものの味とは別問題のようだ。

どこにそういう差があるのか、よくわからない。優れた料理人とそうでない料理人とは、料理を食べ比べてみればその違いは明らかだ。良い料理人が蓄積したコツのようなものを上手に外在化させた調理法があれば、それはきっと良い調理法に違いないが、単純にそういうことでもないように思う。

そりゃ「奥さん、お魚に粉をふるときはバットなんか使わないで、ビニール袋に粉と魚をいれて空気でふくらませて振るだけでいいのよ」みたいなノウハウは伝えることができるだろう。しかし、素材のコンディションによって瞬時に切り替えるワザなどは、動物的反射神経ともいうべきもので、もしその複雑な分岐条件をすべて網羅したら、とんでもなく複雑な調理法になってしまうだろう。

実際そういう本をみかけることがある。ひとつの料理の完成に至るまで、微に入り細に入り、余計なことまで書いてあって要領を得ない。すくなくとも、良い調理法の条件のひとつは情報圧縮だ。だいたい料理をはじめる前に、すべてが頭にたたきこめるくらいの情報サイズじゃないとつらいものがある。、

ボーイングやペダルが詳細に指示されたスコアが、必ずしも良い演奏の手助けになるとは限らないのと同じだ。その音楽にとって本質的な部分がなにであり、どこを他人にゆだねられるかを知っていれば、スコアが化け物になることはない。上手な調理法は、なにがその料理にとってクリティカルなパラメータであり、なにが幅を許容する要素なのかを知っている、ということなのかもしれない。

ところで道場六三郎さんをテレビで見ると、七年前に亡くなった父親のことを思い出す。父親は時折、鰯を手開きにし、根気よくすり鉢ですり、つみれ汁を作ったりしていたが、料理人ではなくただのサラリーマンだった。たんに道場さんとは風体が似ているという以上の共通点はない。

先日購入した道場さんのある本は、非常に成功率の高い、良い本だった。ちなみに、鰯のつみれ汁の作り方も出ていた。ちょっとこじつけがましいけれど、いわば「父親」的な暖かみがあるのだ。あるところはとても細かいことを言っているのに、ある部分はいい加減でゆるみがある。子供が、押し付けがましさと寛容さの分布地図から父親を感じとるように、道場さんの料理の本は、食べる前からなつかしい味がした。

(Mar1996)


 

 

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