3月22日の数日前、MYSTを読み切った。なぜこの日付を覚えているかというと、それがぼくの誕生日だから。それから、この日を境にしてAUMというきわめて対話性の低い書物が開かれて、それまでMYSTに開いていたブラウン管を富士山麓に向けてしまったからだ。
さて、すっかりMYSTのことを忘れきっていたある日、夢のなかにMYSTがすべりこんできた。
MYSTは、なにしろ眺望が美しい。フォグパラメータを巧みに活かしたあの美しいCG画像、形態が直に機能を語る機械のデザインなど、形と意味の美しい結合が宝石のようにちりばめられていて、それらはメッセージが解読されるまえから、圧倒的に美しいのだ。MYSTをはじめると、謎を解くことではなく、MYSTにリンクした世界のすみずみまで足を運ぶことが目的になってくる。
しかし夢にあらわれたMYSTは、静謐な景色そのものではなかった。映像はもしかするとMYSTではなく、ぼくが子供の頃に遊び回った土地に由来していたかもしれない。では何がMYSTだったのだろう。
高校の同級生である小野寺淳(茨城大学)は、歴史地理学の研究者だ。ぼくの開発した「ライブメッシュ」というプログラムが彼の分野で役立ちそうだということで、6月のはじめ彼の主催する研究会に呼ばれた。当初ぼくがイメージしていたのは、実際の地形に比して歪んだ過去の絵図を、物理的に正確な地図として再現する、ということだった。
しかし、十数名ほどの研究者たちとディスカッションするうちに、彼らの研究対象が地面そのものではなく、心的な地図(メンタルマップ)であることを了解した。過去の絵図は、物理的に計測可能な距離に束縛されていない。そのため現在は客観的な図像である地図が、主観的メッセージの媒体たりえたのだ。大男でも小学生でも1メートルは1メートル、そういう普遍の物差しで地面を計測しはじめてから、地図は心的な世界から遠くなってしまった。歴史地理学者たちは、絵図と絵図の接合しないゆがみを通して、その隙間にいくつもの物語を読みとろうとしているのだ。
そういえば、夢に幾度も現れる地形図がある。橋のない川がある所で暗渠になっていて、そこまで歩いて行くと、ぽつんとマンションが建った向こう岸に渡ることができる。地図は、特定の景色に結びついているわけではなく、ときには鉄道に、プログラムに、人間関係にと転調する。地図のうえで、ぼくは焦ったり、安堵したり、迷ったり、泣いたりする。その感情のトポロジーを、夢は何度も何度もなぞろうとする。期待や不安や閉塞感や解放感の塗り分けられた夢の地形図。
MYSTの夢がなぞったのは、景色ではなく、景色からもうひとつ奥にある地図だ。さてどんな夢かというと、この説明が難しい。MYSTと同じような、ハイパーテキストの夢日記を書いてみるといいかも。
(Sep.1995)