メガ日記という奇妙な日記帳に向かい合った。アーティスト八谷和彦さんの作り出したこの装置は、4月1日からの100日間、オンライン上に生息する無数の人々の毎日の日記を収集する。ICCネットに開かれたこの風変わりな日記棚に、100日を半ば以上過ぎたころから参加してみた。
何日か日記をつけているうちに、超多忙で変化に富んでいると信じ込んでいた自分の毎日が、それほど密でもないのに驚いた。今日は仕事しかしてないなあ、なんて日がけっこう多い。とりたてて書くことのない日は、その日作った料理のレシピを書いたり、そういえばクリーニング屋のひさしにツバメが巣を作っていた、など、老人めいたことを書いたりする。
メガ日記は、他人の日記を読むこともできるので、あるとき電話口で「ツバメ元気?」などと、モノローグに話題がリンクしてしまうこともある。電車のなかの独り言を聞かれてしまったようで、妙な感じだ。しかし、その照れくささが楽しくなってくる。表現された文字の並びにはどこにも二人称がないのに、一人称の擬態の影で、むしろ過剰に他者を意識しはじめるのだ。
この、一人称と二人称の間隙に発生する、いわば1.5人称のコミュニケーションが案外気持ちよい。IやYOUの横溢する世界のように暑苦しくないのだ。「友人来訪」と書けば、それは自分に向かい合っているふりをしながら、読んでいるであろう友人に対するメッセージでもある。この中心から視線のはずれた構図が涼しげなのかもしれない。
メガ日記は7月9日、100日目をもってとりあえず終了した。しかしこの装置は、八谷さんのアートを離れて一人歩きしはじめている。この絶妙な機能に気付いたシスオペ達が、自分の主催する草の根BBSにメガ日記的なエリアを設置したという話も聞いた。
メガ日記とともに過ごしていたある日、漫然と眺めていたニュース番組から、刻々と暴かれる松本サリン事件を追う記者が、実行犯グループの足取りを追跡シミュレーションするというレポートが流れてきた。午後3時ごろ、予定を遅れて上九一色村を出発した彼らは、松本市内に向かう途中で渋滞に巻き込まれる。車からは松本の夜景の無数のあかりが見える。「このあかりのもとにある多数の生活を、彼らは考えなかったのでしょうか」と記者は怒りをこめて結んだ。ぼくは怒りよりもむしろ、冷ややかなものを感じた。ふと「一人の人間の死はドラマだが、多数の人間の死は統計である」という言葉が、頭をよぎる。
八谷さんは、来たる8月6日、その1日だけの日記を、全世界からインターネットを通して収集するというプランを練っている。目標は14万人、これは広島原爆の犠牲者の数だそうだ。統計的数字としての三人称複数と一人称との間隙は、いったいどんな人称で埋めることができるのか。ともあれぼくはもう一日、あの涼しいノートに自分を書き込んでみようと思う。
(Nov.1995)