rhizome: 指揮

人間でないもののための音楽

ベートーヴェン交響曲7番ピアノ独奏版を弾く永井さんを指揮しようと棒を振り上げると天窓越しに高いクレーンの先端から人が落下するのが見え、遠くでどすんと音がする。ここのひとびとは一様に顔まで覆うスウェットスーツを着て、人間であることを隠しながら暮らしている。人間の子供たちは、点在する砂場ごとに裸で埋まって身を潜めている。しかし、スーツの中を満たしている人間でないひとびとのための音楽は、人間にはまったく音楽として聞こえない。
高層マンションは大規模修繕のため、四階から上の階が分解撤去されている。天井を這う四階のパイプ群が軍艦のように空に向かって露出していて、複雑な構造が白一色に塗られたところだ。ハッチを開けて部屋のひとつに下りていくと岩間さんがいる。普通に暮らしているんだね、というと、僕の言語が理解できないという顔をする。

(2017年7月20日)

間接生殖

Mが身籠った、とNが言う。Nは、父親は私自身だと言う。しかし君は女じゃないか。するとNは、間接的にあなたが父親だ。だからMと一緒になれと言う。
ほとんど初対面のMと、どうしてやって暮らしていけるのか自信がない。Mとぎこちなく校庭を歩く。競技場の真ん中にあいた小さいオーケストラピットから指揮棒を空に繰り出すが、穴が深すぎて誰の目にもとまらない。

(2016年1月3日)

ムラヴィンスキー全集

体のある部分に力を入れると浮遊が始まる。空中に留まりながら力の入れ方を工夫すると少しづつ高度を上げ、天井に触れるとそのまま張り付いていることができるようになった。(体育館の登り縄を最後まで登ったときの眺めも、こんなふうだった)
シャンデリアのあるホールの天井から見下ろすと、石造りの階段に木箱が置いてあり、人が群がっている。木箱には、対位法について書かれた冊子が何冊も無造作に詰まっている。本を手にとるとムラヴィンスキー全集の一部で、箱の底には和声法、指揮法などの巻もある。欲しい本を積み上げて階段に座って読み始めると、哲学と題された巻だけはただの箱で、小石や大きな黒い蟻や布切れなどがガラガラと入っている。ほかの巻をふたたび開くと、同じようながらくた箱に変わっている。箱を覗いている女に「これが本に見えますか」と尋ねるが、日本語も英語も通じない。

(2015年7月21日)

交差点交響楽団

交差点の四方に四つのオーケストラが配置されていて、それぞれに割り当てられた色がビルの看板になっている。交通整理の場所から指揮をしているのだが、僕は曲の終わりかたも知らない。ふと、機関車トーマスをデザインした女の子が、オリジナルは双子だと教えてくれた。

(2010年1月2日)