お先真っ暗の楽しみ/北嶋 孝
「先端」のカオスとパトス
6枚のCGをご覧になったろうか。すてきなイメージの連鎖でしょう?
「サラダ記念日」で知られる俵万智さんとのセッションは、共同通信社の新年企画として立案された。このオンライン・ページだけでも十分に楽しいけれど、もっと楽しみたいという方はぜひ、お正月の新聞紙面を見直してほしい。一連の絵とともに、連画コンビの中村さんと安斎さん、それに歌人俵さんの三人の語らいが載っているはずである。そこには連画誕生のなぞ、世界各地の同時多発状況、今回のセッションのイメージとモチーフなどが生々しく出ている。
東京や大阪のネットワーカーは残念ながら、すぐにその貴重な記録を手に取ることはできない。配信先は主に道府県地方の新聞社だから、今回の企画紙面を読めるのは「地方」在住者の特権である。それ以外の方々でも、地元紙の東京(大阪)支社などから入手して目を通せば、きっとご満足いただけると思う。
多彩な試み
連画の試みは多様多彩である。提唱した二人のキャッチボール(「気楽な日曜日」「オルランドの夢」)、多人数のセッション(二ノ橋、四谷)、海外との遣り取り(ICC-ISEA95)、音楽とのコラボレーション(「MIDI連歌」)などさまざまな実験を繰り返してきた。今回の詩歌との組み合わせは、連画の歩みのなかで初の試みだった。
連画は連歌と同じく、当事者の立場にわが身を移し変えようとするところから面白みと奥の深さが分かってくるといわれる。三首の歌が発するイメージをどう造形していくか、相手の画像のどこに着目して展開するかなど、受け手の創造力が問われることにもなる。そのあたりの鑑賞と創作の微妙なずれは、当事者のことばを読み解きながら感じてほしいが、ここでは三人の語らいに立ち合ったひとりとして、新聞紙面に盛り込めなかったいくつかの補足と印象を付け加えたい。
影の宗匠
三人の語らいで話の中心になったのは俵さんだった。話題を独占してリードしたのではない。連画の主役である中村・安斎の二人の作家に勘所で適切な質問を出し、連画についてみんなが知りたいことを巧みに引きだす。話が広がるといつのまにか主題の場面に誘いこんでいる。
今回のセッションの出だしの個所で、三首のうちどの歌からイメージをふくらませたかを話しているとき、俵さんは当初の想像と違っていたのにあるところで気付いてパッと話を切り替え、フォローしていった。勘のよさというより、ある種の潔いさわやかな感じを受けた。この辺は活字に出にくい、場面をともにしていなければなかなか分かってもらえない「呼吸」の部類に入るのかもしれない。
座談会の当日まで出来上がっていたCGは5枚だった。それをまずノートパソコンで見たあと話し合いに入ったが、それぞれのCGの着想や受け方、返し方の遣り取りには、実作者同士ならではの相通じるものが感じられた。二人の説明を聞きながら、俵さんは連歌の体験を語り、連歌と連画の異同を確かめながら話を進める。最後は未完だった最後の一枚の着地点までやんわり指摘して話を締めくくった。
個別作品の遣り取りを収録できなかったのは、少々細かすぎるから致し方ないとは思いつつ、いまもその判断がよかったのかどうか迷っている。
細かく打ち合わせたわけでもないのに、俵さんは自然な流れの中で作家の二人と一緒に「場」を作り上げる。録音を起こしてみて改めて、まるで連歌の座を共有しているような感じがした。もしかしたら、今回の連画セッションの「影の宗匠」は、俵さんだったのかもしれない。
おぼろに滲む
連画の口火を切ったのは中村さんの「青い人-ひざしの温度」だが、俵さんの三首を受け取った安斎さんがすぐ思い浮かべたのは、ビル・エバンス・トリオのアルバム「WaltzforDebby」だったという。
モダンジャズ・ファンならすぐお分かりの通り、ジャズピアノの詩人といわれたビル・エバンスの傑作と名高いアルバムというだけでなく、夭折したベーシスト、スコット・ラファロのすばらしい演奏を堪能できることで知られている。しかし安斎さんの脳裏を横切ったのは音楽ではなく、まず絵。「WaltzforDebby」のカバー・イラストだった。黒地にピンクの四角な画面がはめ込まれ、女性とおぼしき黒い人影がおぼろに浮かんでいる構図である。
連画は相手が描いた絵に手を入れることで成立している。極端にいうと、他人の著作物を破壊する作業になる。しかしどれほど作り変えても、相手の足跡は厳然として存在している。文学の連歌に相手の句を改変する自由はないから、連画の方が激しいといえばこれほど激しいことはない。文字通り、「著作物」改変である。作品を通して他者と対峙し、ときに否定するのも辞さないのが連画の宿命だとしたら、自他の境界、自我の輪郭をいやでも意識せざるをえないだろう。
俵さんの二番目の歌はこうだった。
祈願終えて春の光を踏みゆけば少し濃くなる我の輪郭
「連画制作のとき突き当たる問題を(中村さんと)話し合っていたので、俵さんから歌をいただいて、本当にドキッとしました」
安斎さんがこう言ったのも無理はない。ほとんど予備知識なしに取り組んでもらったセッションで、お互いのアンテナが発光したのである。創造現場の先端に通底する「いま」の感覚なのだと思う。
ポリフォニーを聞く
連画はどこまでが特定個人の創作領域かを明示しにくい。かといって共同制作ではないから作品を共有するわけではない。しかし彼または彼女の個別の著作物であることもまた、紛れもない事実である。連画のプロセスは無意識のうちに、著作権という近代の産業社会が生み出した装置の容量をあらわにしてしまった。
こうしてみるとデジタルアートやオンラインアートは、著作権という枠を明らかにはみ出ている。そこでは「WaltzforDebby」の人影が背景に溶け込むように、たしかに自他の境界線は滲んでいる。
二人はその点をよく意識していた。
PC-VAN上に設けた電子画廊「ZEROGRAM」のCGはSharewareである。個人がダウンロードするのは自由。商用には一定の支払いを求める-。コンピュータ・プログラムの世界で普及した方法の準用という面があるにしろ、美術の分野ではおそらくまれなケースではないだろうか。
94年暮れにNTT/ICCの企画で開かれた多人数連画「二ノ橋」セッションのプログラムで、安斎さんは中村さんから送られてきた電子メールを引用しながら、連画と自我の関連についてこう述べている。
「われわれは連画を通して、自分らしさというものが決して自分という単一の枠に閉じ込められた特質ではなく、また他者は自分自身の中にもいることを発見した。……連画の制作過程で、二人のユニットが一つの人格を形作るという感覚を、まったく持たなかった。……むしろ、自分の中に多くの他者のポリフォニーを聞いた。非常に孤独なモノローグだと信じられている創作が、実は自分の中の多くの他者とのダイアローグによって遂行されていることを実感した」
正岡子規は、連歌(俳諧)の伝統的共同体意識を否定し、近代俳句の自我世界を打ち出した。それからざっと100年。最近は連歌(連句)が流行り、「連詩」の実験が行なわれる。電子ネットワークの出現を待つように連画が登場する。時代はちょうどひとまわりして、新しいパラダイムの扉を叩いているのかもしれない。
足がうずくと…
大岡信著「連詩の愉しみ」を読むと、連詩の試みも連画と同じような困難と愉悦を一足先に味わったようにみえる。しかし連画はもっと直接的であるだけ、実行者を時代の先端に押し出しているような気がする。
三人の語らいが終わりに差しかかったころ、中村さんは文字通りぽろっとこんなことばを洩らした。
「お先真っ暗って、わたし大好き。だって制約がない、新しい未知の世界でしょう。そう言われたらワクワクする人がいっぱい増えてほしい」
このことばを連画の文脈に引きすえるには、かなりの補足と解説が必要だった。ぼくに腕力がなくて、この魅力的なことばを新聞紙面に紹介できなかったけれど、彼女のことばには時代の風圧を楽しむ余裕が感じられて、とても印象が強かった。
当日の朝、ぼくは駅の階段で足をひねり、座談会のあいだじゅう脂汗を流していた。しかしこのことばを耳にして、しばし元気が出たことを覚えている。
靭帯損傷でそのあとしばらく病院通いとなり、2カ月たったいまもまだ完治していない。しかし不思議なことに、そのとき痛めた右足がうずくと、ふと「お先真っ暗が好き」ということばがよみがえる。そのときだけはなぜか痛みがやわらぎ、足取りがしばし軽くなるような気がする。
北嶋孝/共同通信社文化部(当時)