AIカンブリアン・早稲田2023

生成AI×リアル 混成カンブリアンゲーム

2023年、生成AIを取り込んだカンブリアンゲームを二つ仕掛けました。
ひとつは1月1日開始の恒例カンブリアンゲーム
もうひとつは5月に早稲田大学文化構想学部(中村理恵子クラス)の授業の中で行ったカンブリアンゲーム早稲田2023です。

早稲田大学文化構想学部の学生42名が囲んだ早稲田2023では、ポストイットを使ったアナログカンブリアンからスタートし、日常の写真をつなぐ散歩カンブリアン、そして画像生成AIを引き込んだAIカンブリアンへと、これまでのカンブリアンゲームの歴史を7週間をかけて追体験しました。
樹が育ったところで、連衆それぞれが自分のリーフを含むフローと含まないフローを選び、批評しあう「カンブリアン詩学」で締めくくりました。

カンブリアン詩学

全フローと感想はこちら

以下は、学生の感想から抽出したテキストを、テーマごとにまとめたものです。

■カンブリアンゲーム一般について

突然画像の雰囲気が変わる繋がりなのになぜか理解できる繋がりもあって、不思議だなと思った。

カンブリアンゲームを通して、写真の場所とか撮影した人とかに繋がりは全くないのにここまで大きなつながりが生まれたことがすごく面白いと感じた。

自分の画像に連なるものが予想外であればあるほど面白いと感じるようになりました。

カンブリアンゲームに掲載された写真はページに載った瞬間、ひとつの作品としてのメッセージ性を持たざるを得なくなる。「深読みのし合い」が連なっていく様子が、フローを生成することで可視化されるのがこのカンブリアンゲームの魅力

どうして撮ろうと思ったのかわからないような写真がつながることもあり、自分が撮った写真の無限の可能性に気が付いた

全く関係なさそうな画像を持ってきて、半強制的に共通点を見つけることで、それまで何も意味を持たないただの風景画や食べ物の写真が、大きな意味を持った写真に変化することが分かった。

どんな人なのかも知らない、話したことすらないような他人の作品を見て、それに刺激された自分の作品も繋げる行為は、その人の頭の中を覗いているような、非常に不思議な感覚がしました。

また自分が(解釈の幅が広いのではないか、という意味で)面白いと思って投稿した作品、ある意味「受け」を狙って投稿した作品よりも、全くそういうのを考えていなかった作品の方が他の人からの食いつきがいいことにも驚かされた。

何度も「いいねボタンが欲しい!」と思いました。

2人分のキャプションを繋げて読むと一つの文章になるようなフローがあり、それこそ本物の連歌のようだと感じました。カンブリアンゲームというのは実は現代の和歌文化と言えると思いました。数百年後、数千年後の未来ではこのカンブリアンゲームも研究の対象になるかもしれないと思うと少し怖くも楽しみだと思いました。

■生成AIとプロンプト

AI画像は最後まで自分の思い通りのものを作ることはうまくできなかった。自分の言葉ではなく、格言をプロンプトしてみたらめちゃくちゃな絵が出てきたのも面白かった。

文が、現実ではありえないものだったり、時制や文法が不自然なものだったりしたとしても、ストーリーがあるものの方が反映されやすいのだと分かった。

AI画像をたくさん生成してみて、「(動詞)する(名詞)」という(例えば「踊るブロッコリー」のような)パターンが面白いAI画像を生成するコツなのかなと感じた。

抽象的な質問をするほど出来上がった画像を見るのが楽しい

「ギリ食用花束」という作品がとても印象に残り、反対に「ぎりぎり食べられない花束」をAIに描かせたらどうなるのだろうと思い、作成してみた。しかし、出来上がった作品はただコンクリートの上に花束がおかれているだけに見える画像で、想像していたものとは違う作品が出来上がった。

キーワードの数を減らすと、自分が思い描くイメージに近い画像が生成されることに気づきました。

AIにも「色々言われて何をすればいいのかわからない」ことがあるのか、

■集合体・極彩色

「集合体」というつながりのリーフが多かったのが印象的

「なぜこうも気持ちの悪いものしか生成されないのか」。カタツムリの大群と打ち込んでみたわけだが、なぜカタツムリの大群を「たくさんのカタツムリが並んでいる」ではなく「たくさんのカタツムリが連結している」と考えたのだろうか。そして何をどうして一匹だけはぐれてしまったのか!

ほとんどがAI画像だったため、あえてリアル画像で対抗しようと思って試みましたが、なかなかつなげられる画像がなく苦戦しました。これは、AIの出力する画像が極彩色のものが多かったからだと思います。

■不自然な細部

AIの画像生成では、人間の画像では手の向きや指の本数がおかしい画像が多々見受けられたが、恐竜の場合は顎の下にもう一つ下顎がついている、足が6本ある、といった画像になることが多かったように思う。

AI画像に見えていたものが開いてみるとリアル画像だったり、リアルだと思って開いたらAI画像だったり、ということが頻繁に起きた。拡大してみると、AI画像には、おかしな点や現実ではありえない箇所があると分かるが、小さい画像では分からない。逆に、リアル画像の中にリアルではないような光景を写した画像もあった。このように、リアルに近づいていくAI画像と、「不自然」なリアル画像が生み出すグラデーションのようなフローがとても興味深かった。

初めてAIで人物を生成する時何か不気味な現象が見られた。例えば人体構造学に相応しくない歪んだ指や目鼻立ち。ルネサンス期、画家は人体の構造を正しく復元することよりも、人物を装飾し理想化することに傾倒していた。その結果、画家が比率よりも感覚を重視し、本来あるべき正常な形を犠牲にして体のラインをより優美にするために、首が長く、下半身が大きく、肩幅が狭く崩れたという、解剖学的にあり得ない人体構造になったのである。

■引き出し

AIの表現の引き出しを把握すること。この表現はたぶん引き出しにないだろうから別の方向から作ってみようとか考えながら作っていた。まるでひとつの人格と向き合っているような感覚で新鮮だった。

画像生成サイトにはそれぞれ得意とする絵柄に違いがあることがわかった

Stable Diffusionで生成する際にはスタイルに非常に左右されるため、この感じで出したいと思ってもかなり形式に引っ張られて出しづらかった

「日本、オタク、春」と適当にプロンプトさせると、秋葉原やオタク文化の象徴みたいなのが出てくるのかなと思ったんですが、春の江戸っぽい街並みがアニメっぽく描かれたイラストが出てきて、日本のオタク=アニメ・漫画であり東京=江戸というものが世界のイメージなのかなと…

■作者の合成

歴史上の著名なアーティストの要素をAIに抽出させた作品やリアルな画像をもとに何度も出力させることで変化する様子が印象に残っており、人間の想像力と時にそれを超えるAIの組合せの面白さに気がつくことができた。それより前はある程度予想がつくようなプロンプトばかり行っていたが、あるアーティストを関連づけたりどう生成されるかわからない文章を入力したりすることをだんだんと習得しているように思う。

リアル→AI→リアル→AIの連続から、現実と仮想空間が一体化しないまでも交差する感覚を常時感じ、とても不思議だった。例えば、AI画像生成で「ポップアート 草間彌生」と検索するとあたかも本人のタッチで作られたかのような作品が生まれる。

■生成と意図について

自分の想像とは180°違うものだったことがあった。これはこれで面白いと思いその画像を保存した所、全く違うフローに繋げることができた。

リアルなものであれAIにつくられたものであれ、自分では全く思いもよらなかったイメージが突然外部から現れ、それらが集合体として作品となることが、カンブリアンゲームとAI生成画像に共通した魅力なのではないだろうか。

最初は自分が狙った画像をどうすればAIは汲み取り作り出してくれるかと勤めていたが、次第に対照的なワードを組み込みAIに身を任せるようになった。特に「真っ白な墨を吐くイカ、水銀」とMemeplexに入力して出来上がった画像は自分の中でも傑作であった。

自分の思い通りに行かないことも数多くあった。例えば、愛・地球博の公式キャラクターであるモリゾーとピッコロを蓑虫風にした画像を生成しようとしたが、うまく行かなかった。

(リアル作品は)元々考えていた目的とは異なった意味を持たせることになるということが、おもしろい(AI画像生成では)このような作品を制作したいという考えがもともとあってから、それに合わせてプロンプトを考え、自分が考える作品にできるだけ近づけるようにプロンプトを推敲していく。

打ち込んだキーワードとは異なるタイトルをつけることになる場合が多くなった。

他の人が作った作品を見て「すごいな」となんとなく思ってしまうことの背景には、キーワードを打ち込む→AI生成→タイトルをつけるという、人間とAIが混ざってつくる偶然性みたいなものも関係しているのかなとも思う。カンブリアンゲームではそれが個人にとどまらず集団に発展していて、リアル写真とAI画像が交錯しているようすを見て、自分が投稿したリアル写真の次につながる写真や画像の繋がり方などを想像するたのしさと偶然性がおもしろいと思った。

最初の方は思い通りの作品が出てこないことに不満を感じていたが、数を重ねていく内に、これは裏を返せばAIが未知の世界に連れていってくれているのだということに気がついた。

ペイントツールで最もよく使うコマンドはCtrl+Zな私にとって、「描き手の意図しない結果が現れる」という現象は日常的なものである。だから偶然上手くいったストロークの集合体である自作品を見ても、どこかで「自分の絵」ではなく「自分の絵の上澄み」のような気分になる(底にはCtrl+Zで消された無数の「自分の絵」が沈んでいる)。手というものもある意味で自動生成のツールの1つなのかもしれないと考えた。

人間の制作物はどれも(どれだけ無意識的にしようとしても)どこかに必ず意図が存在する。一方、AIによる画像生成は写真から意図を剥ぎ取ることができる。こんな絵を出したいと意図しても全く違うものが出てくる。意図しても意図的にならない。

AIは自分の思い通りになってくれない。これは言い換えれば、自分の思考の外側に出ることができるということではないだろうか。AI画像生成の使用は、固定観念・ステレオタイプに縛られない思考の飛躍を促し、現実世界の外へ飛び出すための扉を開く鍵になると思った。

■AとR

現実と仮想は交わらない。カンブリアンの世界の中ではそれらは簡単に混ざり合い、相互に影響を及ぼしていく。

AIを使う意義とは、人間の常識的な想像の範疇に収まらない非現実的な世界をR(現実)写真と繋げて介入することで、現実に今までにない視点をもたらすことだと考える。実際に私は自分の投稿したR写真(フロー①羊の作品の写真)にAI画像(砕けていく人)が繋げられたことにより、この作品に対して生命の有限性、破壊されていく命としての視点を初めて持つこととなった。

カンブリアンゲームは、AI画像とリアル画像が複雑に繋がることで、一瞬にして相反する感情がいったりきたりする刺激的な空間であることは間違いない。

空飛ぶシロクマの画像は観客にさほど驚きを与えず、AIや合成の類だと思われて終わるだろう。しかし、その画像がリアルを写しただけの写真なら話は別である。これが、リアル画像に成し得てAI画像に成し得ない、リアル画像特有の価値なのではないか。AI画像と比較されるからこそ際立つようなリアル画像の作品が作れたらいいなと思う。

■AIカンブリアンの可能性

正直なところ、私は当初カンブリアンゲームにAIを用いることに対して違和感を覚えていた。カンブリアンゲームにおいてリアルの画像こそが何気ない日常を思い起こすきっかけとなり、そこから他者との共通点を見出す面白さがあると考えていた上に、制作にAIを用いること自体人の手を借りているような嫌悪感を感じていたからだ。

AIによる画像生成は、人間がこれまで育んできたアートという分野に全く新しい要素を取り入れ、進化させることに繋がるのではないかと思うようになった。

生成系AIは、連画や他人とのコミュニケーションツールとして優れているなと素直に感心した。自分の作品として世に出すのは著作権や様々な問題が結びつくために難しい部分も多いが、このようなイメージの連想によって育まれていくおおきな木のようなものを全員で作っていく一体感も素晴らしいと感じた。リアルに結びつくAIが、もう既に遜色なく違和感なく馴染んでいることに驚かされた。

図書館の写真からミルフィーユ写真に行くのは私たちが目で見てぱっとわかるものではない。そこには、つなげる人が持つイメージだけではなくAIが解釈するイメージの二重で解釈が生まれるからだろう。今回のカンブリアンゲームがここまで盛り上がったのは人間の解釈だけではなく人間とAIにおける二重解釈が行われていたからであるなと感じた。

■身体性・無意識・夢

AIの食べ物、特に調理後の食事の場合、よくみると使われている野菜は切られたりすることなくそのまま用いられていたり、なんだかよくわからない、得体の知れないものが入っていたりした。人間は食事を「視覚で味わう」ことがあるように、「いかに美味しく見えるか」をとても大事にするけれども、食事を味わうことのできないAIには、見た目でおいしさを表現する、ということができないのではないかと思った。AIが苦手とする画像だと思う部分にこそ人間が大切にしている価値観が反映されていると思った。

リアルの写真を作品として投稿する場合、思い出を参照していて、AI画像を投稿する時は自分の言語をプロンプトするため、AI画像作品のほうが深層心理が現れている作品が多いのではないか

とある画像から着想を得てAIで「首を寝違えて痛がっている人」の画像を作りたいと思い「首 寝違えた 痛い」などとプロンプトして入れてみたところ、AIは痛がっている犬の画像を生成してきた、確かに「人」と入れていなかったので犬が出てくること自体はおかしくないのだが、私は無意識に寝違えて首を痛がるのは人間だけだからAIも人間の画像を出してくるはずだと仮定していた。その予想に反してAIは犬が首を痛がっている画像を作ってきたので、その時にはじめて自分の中に「首を寝違えて痛がるのは人間だけだ」という前提があることに気付かされた。このように、AIが作ってくる画像を見てはじめて自分がなにを無意識のうちに前提としていたかに気付かされるのも非常に面白かった。

自分なりの画像生成のコツについて。まず、お風呂の中でその日にあった出来事や聞いた話、感情を一通り思い起こす。そして、その中からランダムに抽出したキーワードを、AIに責任転嫁するような気持ちで並べていく。すると大抵意味不明な画像が生成されるが、意味不明な方が実は見方や捉え方が増えるため、その分繋げられる画像の選択肢が広がった。

カンブリアンゲームでAI画像生成で遊ぶようになってから、変な夢を立て続けに見ることがあった。僕の夢の場合、特に多かったのは、自分の体の腕や脚などが知らないうちに他の誰かのそれと付け替えられちゃっている、みたいなパターンのものだった。AI画像生成で遊ぶようになってからの、自分の脳内のイメージが撹拌されている(それも言葉を伴って)ような感覚だ。また、普段生活していて目にするものの見え方も、変わった実感があったりする。普段気にならなかった鉢植えの植物の葉脈が気になったり、洗濯ばさみの構造に感心したり、「そういうもん」として見えていたものらの、ディティールが迫ってくるような感じだ。(追記、夢の話をSNSでつぶやいたら、同じような経験をした人が何人かいた!気になる)

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