犬を飼っている.名をロクという.娘が教会のバザーで見つけてきて,絶対に世話は自分でやると言うから,飼うことを許した.結果,案じていたとおり,早朝の散歩は僕の役割と相成った.
早朝,ロクの散歩をしていると,様々なイヌと飼い主のカップルに出くわす.そのことは,なんだか同病相哀れむような気持ちになって,僕にとっては,かなり恥ずかしいことなのだが,それぞれのイヌと飼い主に固有の歴史があって,それぞれのイヌとそれぞれの飼い主がかけがえのない関係を築き上げているとしたら,それは慶賀すべきことだと思ったりもする.僕とロクとの関係も,そのような他に置き換えることの不可能な関係として受け入れなければならないと,一生懸命自分に言い聞かせたりして.
それにしても,早朝の散歩で出くわす様々なイヌが,犬という一文字の漢字で扱われることに,なんだか不思議な気分を覚える.ロクがいて,ゴロウがいて,シロがいて,セバスチャンがいて,アーサーがいて.さらに,名前の付いていないあまたの・・・.ここまで書いて,僕は愕然とする.ここで僕が書こうとしたことは,「あまたの犬が」という言葉なのだが,散歩の途中で出会う様々なイヌを表す言葉として,僕は犬という言葉以外に思い浮かべることもできないし,ロクと僕との散歩の途中での様々なカップルとの出会いをみなさんに伝える術も持っていない.しかし,その様々な出会いを,「多くの犬をつれた人間と出会う」と記述したとたん,僕とロクとの毎朝の行為が何かとてもしらっちゃけたものに変質してしまうような気がする.今日の早朝の散歩での名も知らぬ・・・と・・・のカップルとの出会いは,出来事としては他に置き換えることができなくて,断じて昨日の・・・と・・・との出会いとは,異なるものなのだ.
高先生の「魂」という書と,安斎さんと中村さんがこの書に施した改竄を見たときに僕が感じた感動は,実は僕とロクとの毎朝の散歩で出会う,様々な個人史と同質なものではないかと思う.そこには,この画面を通して,みなさんが出会うこの「魂」という文字と全く異質の「魂」があった.それは,1996年の5月某日に,高先生が書いた文字であり,4000年の書の歴心の中で,あまた書かれたどの「魂」とも異なる,その時その場で書かれた文字に他ならないのだ.それにも拘わらず,僕たちはその形を「魂」というある普遍的な意味を持った文字として認識する.そして,安斎さんや中村さんが「魂」という文字に対して行った営為は,文字が本来的に形あるものであり,その形が移ろいゆくものであることをまざまざと見せつけてくれたのだった.
僕の感動を,冷静に分析してみると,日頃の自分が文字というものに,いかに雑駁に対していたかという愕然たる思いに行き当たってしまう.こうして,パーソナルコンピューターに向かって文章を打ち出していて,そこに「魂」という文字が出てきたとき,それは,JIS X0208 の句点番号 2618 というコードとして処理されてしまう.だれが,どこで打とうが,2618 は 2618 で,それ以上でもそれ以下でもない.このことが悪いと言っているのではない.むしろ,僕たちは日常の生活の中で,「魂」を2618というコードに置き換えることの有用さを最大限に享受しているのだ.歴史は,時と場を違えて書かれたあまたの「魂」を,活字に置き換え,コードに置き換えてきた.そのことによって,得たものも失ったものもある.その一々を挙げ連ねることはしない.
僕の愕然は,2618 の背後に,4000年の長きにわたって積み重ねられてきた,あまたの「魂」があるということを,北京連画が,卒然と思い起こさせてくれたところにあったのだ.
僕が文字のことを考えるとき,よく夢想する風景がある.
冬.電車の中.旧式の二つドアの湘南電車が望ましい.デッキのドアの脇.
若い恋人同士.見つめ合っている.無言.
電車の暖房で曇った窓.
女が,目をそらす.曇った窓に人差し指で
「バカ」
と一言.
「イヌ」
と口に出したとして,その意味するところは状況によって様々に変化する.
「獰猛なイヌが襲ってくるから気をつけろ」
という意味にもなるし
「まあ,なんとかわいいイヌなのでしょう」
という意味にもなるし
「官憲のスパイとは卑劣な奴め」
という意味にもなる.そこには,前後の文脈も言葉が口に出されたときの言い方なども深く関わってくる.書かれた文字からは,えてしてこのような状況に依存する意味がこぼれ落ちやすい.しかし,僕が夢想する状況の中では,女が書いた「バカ」という文字には,それを敷衍するためには多くの言辞を要するようなまさに万感の思いがこもっている.
北京連画は,そのような書かれた言葉の豊かな側面を,改めて僕に思い起こさせてくれたのだった.このような言葉の豊かさを,次の世紀にどのように伝えていくか,それは僕たちみんなに課せられた責務なのだろうな,きっと.