5月29日
イベント初日。朝、8:45 会場集合。9時、テープカットとともに観客入場。
会場には信じられないくらい大勢の人が流れ込んでくる。一般向けの告知も宣伝も
ないのに、どうやって情報が流れていったのか? 中国人の口コミは強力だ、という話を思い出す。
高峡さんの第三世代作品は、デジタルカメラで撮影し、すっかり私たちの製作環境
に取り込まれている。そこで、私たちは第四世代の制作にとりかかった。現場の限ら
れた時間のなかで、ふたたび漢字の「魂」と向かいあう。
高峡さんは、私たちが彼自身の作品をどんどん変容させていく制作過程や、それを
何枚でも出力するプリントの工程をじっくり観察して、ホテルに戻っていった。
5月30日
午前11時に会場に姿を現した高峡さんは、A3サイズの画仙紙に出力した第四世代
のデジタル作品をテーブルに置いた。紙の表面をゆっくり数回撫でると、深く一呼吸し
て、わずか数秒だったと思うが、流麗でしなやかな筆跡を這わせた。
その場にいた観客すべてが共有した一瞬のギュっと音のするような空気の緊張感と 、デジタル作品とアナログ作品がみるみる融合していく瞬間を見て、私は今までにな い経験に息をのんだ。
高峡さんは淡々とした語り口ながら、実に嬉しそうだった。いわく「これは四千年 前の文字を、21世紀のスタイルにつなぐ試みです。中国の歴史とハイテクノロジー の幸運な出会いの瞬間を経験できて、非常に感動している」
高峡さんはわずか一晩で、新しい軌道をみつけてきたのだ。
←<高峡さんは、手帳に漢字でメモをしながら、北京連画の意味について話しはじめた>
5月31日
北京連画サイトに、第五世代までの作品をレイアウトする。ビジョンクエスト展 全体のテクニカルサポートを引き受ける糟谷氏が、こう呟いた。 「たぶん、日本人でこんなややこしいことやったんは、わたしらがはじめてですわ。 北京のプロバイダーにホームページをもった日本人は、あんたらがはじめてでしょう なあ。香港にページ持つ人はいるかもしれないけど。中国側スタッフも、日本人と こんな仕事したんは、はじめてやそうです」
中国の技術スタッフといえば、北京シミュレーションセンターの王(ウォン)さん は、毎日ブースに来ては、「困っている事ないか?」と聞いて帰っていった。彼は、 PC、Macとも最新情報に詳しく、英語も流暢。そういえば、俳優の中井貴一の お父上で若くして亡くなった佐田啓二にちょっと似たハンサム(なんて話しはどう でもいいか)。
中国のインターネットは、非常に不安定だ。今回も高峡さんの第三世代作品を、苹 果電脳国際有限公司(北京のアップルコンピュータ)から日本のFTPサイトに送っ てもらおうと試みたが、うまくいかなかった。中国が外国との不明な情報のやり取り を、スルーにしていないからだという人もいるが、実態はあきらかではない。しかし 、中国のwebサイトを日本から見るのは可能だ。そこで、北京のプロバイダにホー ムページを借りることになったわけだ。
たまたま会議場の地下にインタネットプロバイダのチャイナネット(*)が入ってい たのは、私たちにとって幸運だった。私たちがなにを望んでいるかを正確に伝えるた めに、中国語の通訳とともにプロバイダを訪れる。しかし、結局コミュニケーション は英語で行うことになる。中国語は、外来語を独特のやりかたで自国語化するので、 専門知識がないと通訳できないのだそうだ。
雑誌、テレビなどの取材をいくつか受けたあと、午後3時から北京中心街へ。数時 間を盗んで、天安門付近を散歩した。五月下旬だというのに、気温は32度。今年の 六月四日で”天安門事件”からちょうど七年がたつ。いまでもこの日が近づくと、学 生達の深夜外出が制限されたりするようだ。天安門の右手にある中国歴史博物館には 、香港返還まで396日と大きな垂れ幕が建物中央にかかっていた。
日本の仲間から、北京連画の臨時webサイトを見た感想がいくつかFAXで入っ てくる。「見たよー、かっこいい」、「漢字という抽象化への遡行に感動した」など など。私たちもスタッフも、こういう小さい励ましにはたいへん勇気づけられる。
6月1日
セッション最終日。9時30分会場到着。今日は、中国の「子供の日」だ。会場に は、朝早くから子供達と教育熱心な親たちでごった返している。午後に高峡さんによ るライブが予定されているので、大急ぎで作品制作。しかしそのあいだにも「プリン ターは何だ?」「このソフト(SuperTableau)はウインドウズで動くか?」(ちなみ に中国にはほとんどMacユーザーがいないそうだ)「プリントをぜひ持ち帰りたい がいいか?」と来場者の熱心な質問責めにあう。見かねたスタッフが、「制作中」と いう札を貼るが無駄。喧騒の中、どんどん高峡さんとのセッションの時間が迫る。午 後1:30、2枚の第六世代のCG作品が準備できた。
これらの作品、どうも昨日、天安門や、かつて紫禁城と呼ばれた故宮あたりで目に した独特の”赤”にすっかり影響されたらしい。まるで示しあわせたように、ふたり とも西洋や日本の赤とは違う独特のチャイニーズレッドを画面に流し込んでいた。
さて、これを高峡さんがどう受けるだろうか?
こうして「魂」をめぐる、私と、安斎と、そして高峡氏の対話は、七世代、十四作 品の連画作品として完結した。もっともっと対話を続けていたいとも思った。しかし 、とりあえずこの場所を離れるときに、筆と、マウスを置くのがいいだろう。
再見。