SANPO
─接続する散歩道─
安斎利洋
品川のエキナカ(駅の改札内にある店)に鯛茶漬けを食べさせる店があるから、食事がてらそこで打ち合わせをしようということになった。池袋駅からJRに乗り、品川駅構内の店で予定通り横浜の仲間と落ち合った。二時間ほどそこで過ごし、改札から出ることなくふたたび池袋に戻ると、これはまるでJRという巨大な建物があって、池袋の玄関から入ってまた出てきたのに等しいのだなと思い可笑しくなった。この建物にはきわめて長い廊下と横に滑る箱がついていて、奥の間まで座ったまま到達できるわけだ。
これと類似した感覚は、たとえばスーパーで売っているタイ産の玉葱を見るときにも感じる。グーグルアースで見るような広大な地球のテクスチャー上を、石油を燃やしながら渡来したこの物体は、まるでダウンロードしてきたようにそこにある。自分の体も食べ物も、まるで情報のような顔をしてテクスチャーの上を素通りする。品川の近所に居ようが遠方に住もうが、どこの誰にとってもひとつのものは同じように解釈され同じ価値をもつ。高田馬場や渋谷にある深く切り込んだ谷の抵抗感は、そこにない。
人間はこのように、特定の場所、時間、条件、物語から切り離された、文脈のないつるっとしたものが、実はとても好きなのだ。お金の発明も、数学の発明も、この種の好みの、究極の具現だ。
子どもの絵を研究している東山明さんと直美さんが、多くの子どもに同じテーマを与えて絵を描かせ、収集している。その結果が実に興味深い。たとえば「コップと水」を描かせると、三歳児は実に多様な絵を描く。予備知識なしにその絵を見ると、何が描かれているのか直ちにわからない。水の入ったコップであると聞かされて見ると、なるほど捉えどころのない液体を囲い込んで口元まで運んでくれる道具の感動が伝わってくる。三歳児は、思ったよりもちゃんと認識したままを描いているのがわかる。ある年齢に達すると、誰が見てもコップに水と了解できる絵を描くようになる。その途中、視点を選んだりパースを調整したりして、描画に関するさまざまな方法を獲得する。これは一般的に、発達と呼ばれる。
しかし発達は、特定の私と特定のコップが出会う質感の海から、玉葱をもぎ取ってくるプロセスであるともいえるだろう。私たちは賢さを獲得しながら、同時に三歳児のもっている「何か」を失っていることに気づく。
ここにひとつの写真があり、誰が見てもそれは傘である(図1)。にもかかわらず、私たちはあえてそれを、誰も見たことのない何かとして見ることを試みる。誰が見ても同様に傘と見るのは、いわば明るい太陽を直視したとき、そのまばゆさに囚われるようなものだ。そこで太陽を月が覆うと、周辺にフレアとかコロナといった、普段見えない「何か」が現れてくる。
傘の写真は、2008年の十二月に私たちのウェブサイトに種として投稿され、植えつけられた。傘には、別なメンバーによって投稿された脱ぎ去られたツナギがリンクする。ツナギは、紙の顔に、顔は窓ごしの宙吊りの男へとつながっていく。種は発芽するようにいくつもの連想の分岐を生み、ほんの二十七日の間に千九十九葉からなる巨大な樹にまで成長した(図2)。
SANPO3と名づけられたこのウェブ上のアートセッションは、1991年から始まった私と中村理恵子のコラボレーション「連画」のひとつの実験として位置づけることができる。連画はビジュアルな連鎖の生成的な豊かさを手に入れる試みとして、さまざまな方法の変種を生みながら、無数の作品を残してきた。はじめはCGによる絵を要素としてきたが、最近はもっぱら写真を素材としている。デジタルカメラの急激な発達は、撮ることと描くことの段差をなくしてしまった。カメラは筆のように、日常空間のパレットから自分らしい絵を吸い上げてくる。
SANPOシリーズは「接続する散歩道」という副題をともない、一昨年、Mozillaのイベントと連携した第一回目のセッションが行われた。一般参加を募る次のような呼びかけが掲げられた。
「お気に入りの散歩道で、出会った景色、人、物などをカメラにおさめて、ほかの誰かの散歩道、知らない国の散歩道に、つないでみましょう。風景が響きあって、地上のどこにもない、あたらしい地図が成長します」
SANPOのルールは単純だ。自分以外が投稿した写真に、自分の写真をつなぐこと。一日にたとえば三枚(枚数は時期によって変化する)という制限。撮影場所を書くこと。
実を言うと私も中村も、「星座作用」とか「蝕」といった硬質なコンセプトを掲げたこれまでのネットワークコラボレーション作品の流れの中で、SANPOは一種の息抜きというか、傍流のような感覚ではじめたセッションだったのだ。しかしその気軽な構えは簡単に覆された。SANPOは、いままでに立ち上げてきた実験を回想するように、形の類似、隠喩の展開、物語の回想、クオリアの連鎖、見立ての諧謔、ありとあらゆるビジュアルな修辞法を網羅し、組み換えはじめた。目的の緩いそぞろ歩きだからこそ、どんな小径も見逃さない浸透力を備えるのだろう。(図3~)
SANPOを囲む仲間は、哲学者がいたり編集者がいたりアーティストがいたりで、そもそも息が抜ける顔ぶれではなかった。昨年の暮、パナソニックセンターで行われた私たちの展覧会に2m×2mの大きなSANPOマップが展示され、そこにSANPO連衆(メンバー)が集い、パネルディスカッションが行われた。そこで、連衆でありメディアアート創生期を牽引してきた大先輩でもある幸村真佐男氏が、クリストファー・アレグザンダーの『都市はツリーではない』を引いてきた。樹(ツリー)は、どの要素もただひとつの根にたどりつく構造をもつが、アレグザンダーの言う都市の構造は、要素がいくつか別の根にまたがる。それは言いかえるなら、品川エキナカや玉葱が、無数のエキナカや玉葱の文脈をもつこと、あるいはひとつの写真がいく層にもまたがるネットワークに晒されることに相当する。
SANPOの樹状結晶を生み出す仕組を、私たちはカンブリア紀の生物多様性爆発になぞらえ、カンブリアンゲームと呼んでいる。カンブリアンゲームはひとつの進化の樹として表示されるが、個々の葉(写真)は明示されないいくつかの関係に晒されている。写真は、日常空間の構造から切り取られ、ハードディスクに蓄積された迷路に配置され、脳の連想ネットワークをたよりに、他人の経験の網目に投げ入れられる。
言い換えると、カンブリアンゲームはポリフォニー(多声音楽)である。ポリフォニーとは、多数の声の主が、それぞれ自律的な異なる原理をもつこと、そしてそれらがところどころでカップリングすることを意味する。そしてもっとも重要なのは、響き合っていることではなく、まだ響き合わず理解できない他者がそこにいることだ。響き合いから外れた不協和な声部同士が、それぞれ謎を解きあうようにもつれ合い、新しいカップリングを模索する。
SANPOの中の美しい流れは、ときにその良さが説明できない。説明するためには、写真をつないでいくしかない。