詩的工学の提言

芸術と工学の相互越境

安斎利洋

テクネー(類縁である工学と芸術)

2006年パリで行われたアレクサンダー・マックイーンのファッションショーに,ケイト・モスが現われた.ピラミッド形に組まれたガラスの中で薄衣を風で舞わせながら回る彼女は,ホログラフィーによる虚像で,この世とも思えぬ美しさに多くの人が息をのんだ.ショーの録画を見た私の知人たちの反応は,大きく二つに分かれた.かたや,制約の多い技術をよくここまで効果的に見せたという人たち.かたや,未熟な技術を完全に見せかけるごまかしではないか,という人たち.
芸術家は,技術が本質的なピークをあらわすようなチューニングを行う.普遍性を求める工学的なセンスからすると,それはまやかしのデモンストレーションに映る.この乖離は,芸術と工学のパラダイムの違いを端的にあらわしている.芸術は反証できない一回性を極めようとし,工学は反証可能な再現性を抽出しようとする.
芸術と工学は決定的に正反対の性格をもちつつ,一方で感覚,情動,認知といった共通の関心を通して影響しあっている.工学と芸術が近さと遠さを合わせ持つ矛盾した距離感の中にあるのは,ギリシア語のテクネー(Τέχνη)やラテン語のアルス(ars)が技術と芸術両方の意味をもつことからわかるように,同じ根に帰することができる類縁だからである.
私はコンピューターグラフィックスを手始めに表現活動を開始したが,メディアアーティストなどと呼ばれ方は変わりながら,工学と芸術の汽水域(淡水と塩水の混じるところ)に棲み続けてきた.ひとつのテーマを二つの問題圏で考え,二つの世界に友人ができた.この体験をいくつか紹介しながら,私がこのテキストで話題にしたいのは,いずれの領域にも帰還できない人たちと,いずれのパラダイムにも完全に回収できない成果が現われはじめたことだ.現代のテクネーとも呼ぶべきこの領域は,芸術が芸術を越えるために有効であり,工学が工学を越えるために有効である.

ブリコラージュ(無目的的発見法)

工学と芸術の戦略の違いを,鮮やかに示す出来事を紹介しよう.1997年に,工学者とアーティストのコラボレーションによる「絵ことば」というプロジェクトが立ち上がった.木原民雄(NTT)を統括とし,私(安斎),中村理恵子(アーティスト),安田浩教授(東大先端研・当時)という布陣で,絵文字のレイアウトによって,自然言語と同等の意味伝達が可能な「絵・言葉」を目指した.
「絵ことば」は,最小要素となる絵の単語「アトム」を作ることからはじまった.アトムは自在にレイアウトすることができ,分子としての文を作ることができる.ある段階で,安田教授から中村へ課題が出された.「明日午後3:00アメリカに行きます」という例文をアトムの構成によって作ってほしい.
中村はさんざん悩みぬいて,アトムを組み合わせたビジュアルな文を作った.しかし,これははなから失敗が予見できる課題であった.その時点のアトムには,例文を満たす語彙がなかったからだ.
われわれは一転して別の実験を行った.アトムを一覧する辞書「アトムブック」をつくり,それを眺めながら思いつく例文を作り,意味を日本語で併記するというワークショップを行った.内容はあらかじめ制約しない.これは,戯れに満ちた例文の集積を残した(1)
安田教授の正統な工学的思考は,日本語と英語が相互に翻訳可能であるような形で自然言語を翻訳できる汎用のコードをめざした.一方,中村の芸術的野生はこの方法に適応できず,その結果われわれが思いついた手法は,ブリコラージュ(bricolage)であった.
ブリコラージュとは,町の便利な修繕屋がガラクタを集めて,思いつきでモノを作ったり直したりする光景を思い浮かべればよい.ブリコラージュはとりあえず目的をもたないが,しかしいつか役に立つかもしれないという曖昧な動機でモノをいじっているうちに,いつのまにか何かができてしまうことを言う.芸術家の創作風景は,およそブリコラージュであることが多い.
ブリコラージュによって目的が達成される確率は低い.しかし,芸術においてブリコラージュがうまくいくのは,芸術家が当初目指した目的にかかわらず,出来上がったものを目的と思い込むテクニックを身につけているためだ.これは冗談ではなく,本質的な問題である.たとえばわれわれは,ある気持を言葉で記述できるのは言葉が万能だからであると考えがちだ.が,逆にわれわれは言葉にできた記述だけを気持として記憶する,と考えてみよう.記述しようとした気持と記述できた気持が違っても,結果的にそこに記述できた気持だけが残るのである.
ブリコラージュという言葉は,フランソワ・ジャコブによってダーウィンの次のような観察と結び付けられている.
「例えば,もともとは花粉を柱頭に付着させる役割であった蕊(ずい)は,少し改良されて,昆虫の体に花粉塊を付ける役割を果たすようになり,そこで昆虫を介しての交配が可能となったのである.」(2)
ここで「昆虫を介しての交配」を目的にして「少し改良」が行われたわけではないことは確かで,それはたまたま功を奏したブリコラージュの残滓である.花の蕊は,なにかの役に立ち続けているが,それは花自身からの要請でも,昆虫からの要請でもない.戯れのように,いま目の前にある語彙で何が表現可能なのかを思いつく限り網羅しているうちに,ふとその語彙によって表現可能なコードが生まれたのである.ブリコラージュは,目的のないヒューリスティックス(発見法)で,何を発見するのかやってみなくてはわからない.発見したものが,機能すればそれでよしとする.
おそらく多くの工学的な要請に,この手法は応えないだろう.工学は,なにかしら公共の役に立つ機能の創出という目的を背負わされている.ここで公共をスポンサーと言い換えるなら,工学はスポンサーによって軍事目的にも平和目的にも切り替え得ることを要求される.工学の目的は内部に規定されているわけではなく,外部から与えられていて,それに応える解決法は迅速に発見されねばならない.

コーパスによる思考

fig1

図1 マチスましーん 初期状態

芸術は主観的感覚を表現し,科学技術は客観的原理を表現する,という通念があるが,しかしこれはそれぞれの原理を言い尽くしてはいない.工学と芸術を分かつのは,作るべき「何か」の発見法の違いである.かたや目標と論理を用い,かたやブリコラージュと連想を用いる.工学者は論文を書くが,芸術家は作品を作る.言い換えると,工学は文法によって考え,芸術はコーパスを作りながら考える.それは,なぜだろうか.
2007年の春,横浜にある小学校一年生の教室で実験的なワークショップを行った.「マチスましーん」(3)(安斎・中村 2005)は,晩年のマティスがしたように,紙を切ることによって絵を描く.出来上がった切り絵は,スキャナを通してカンブリアンツリーと呼ばれるウェブ上のグラフに接続される.絵を作るにあたって,ツリーにある他の絵の影響を受け,影響は矢印で示される.スキャンし使い終わった切り絵や切りくずは,「マチスプール」という入れ物に返す.切り絵を作るときに,プールの中の紙を再利用しても良い.
込み入ったこのルールを説明するかわり,私たちはルールにのっとって作られた十例ほどのコーパスを彼らに示した(図1).ほんの数分それを見せると,彼らはほぼ完璧にシステムのデザインを汲み取り,滑らかに創作を開始したのだった(図2)

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図2 マチスましーん 横浜市立大口台小学校1年生の育てた木全体

人間はこの世に生まれると,理由を知らされぬままゲームのプレーヤーとしてグラウンドに立たされ,ゲームが何をゴールとし,どんなルールに依っているのかを理解しようとする.幼年期の人間は,言語,建物,道路など,彼をとりまく膨大なコーパスから帰納的に世界を理解する.ある年齢に達した人間は,外国語を習得するときに文法の助けを借りるようになる.演繹的な理解による近道を覚える.
芸術の創作とは,膨大な過去の作品群に,新たなコーパスをひとつ加えてみることである.芸術は,なぜ文法や方法そのものを示さないのか.芸術は,なぜ論文をアウトプットとしてこなかったのか.記号論の語彙で言い換えるなら,なぜ芸術はシニフィアン(記号のあらわれ)を示し,シニフィエ(記号の意味内容)について語らないのか.これを説明するために,クリプキのクワス算が恰好である.
1+1=2 16+21=37 というような一群の計算過程が示されている.そこである人が,68+57=5 という.これは間違いか.この計算は,xプラスyが57以上なら,答えが5になる「クワス」という新しい演算子だ,と主張された場合,これを間違いであるということはできない,とクリプキは言う.
芸術的な創作とは,過去の多くの作品群を「プラス」としたとき,そこに「クワス」の演算をひとつ例示する試みである.論文が,過去の多くの論文のネットワークに新しい命題を加えるのに対して,芸術はたったひとつの作品で,過去の作品の蓄積を「プラス系」から「クワス系」に転ずることをもくろむのである(4)

星座作用(パラダイムシフトの可視化)

20世紀の美術史を,次々と加えられた新しい演算子の歴史として振り返ることができる.古典的な絵画の世界感は,まず形があり,その中に陰影があり,そのうえに色彩があるという属性の階層構造をなしている.これを形,陰影,色彩の三次元と考えると,印象派の絵は明度を回転して色彩に転じ,色彩を回転して形にする.そのたびに,美術は新しい演算を抱え込む.
マルセル・デュシャンのレディメイドと呼ばれる一連の作品では,たとえば泉と題された便器がたんに示される.ところがこの函数を抱え込んだ人間は,日常空間のあらゆるデザインを,別の意匠として見る変換を装填される.一個の便器が,オセロゲームのように世界を次々と裏返す.
もし蕊という物体が,花粉を柱頭に付着させる機能として制約されていたら,花は永遠に昆虫と出会うことがない.もし,あらかじめ示される一群の計算過程に「プラス算」の規則が併記されていたら,あらたに加えられた「クワス算」はたんなる例外になる.芸術家はだから論文で作品を説明し制約することをしない.
芸術家と工学者は,エラーに関して決定的な意見の相異にみることがある.情報科学にとってシャノンの通信モデルは一種のドグマであり,通信経路でノイズに撹乱されたメッセージは訂正されなくてはならない.芸術的表現にとって,ノイズはむしろクワスの宝庫である.芸術家がときおり自分の頭で考えるのをやめ,絵の具の飛まつや木の割れ目などの偶然を作品に持ち込むのはそのためである.
芸術家は,鑑賞者の帰納的な推論能力に期待して,新しい演算子を演算の例示によって示そうとする.芸術が,潜在的なアルゴリズムを示すために,そのリプリゼンテーションである作品だけを示すのは,「作られたもののふるまい」が,想定する原理を超えた原理を記述しうるからである.複雑系の研究の中で生まれた構成論的理解の手法(5)は,手持ちの原理で理解できない対象に,等価なものを作ってみることによって接近しようとする.これは,芸術がやってきた世界の捉え方とよく似ている.
芸術の受容は,リバースエンジニアリングのように,表出された情報からコードを辿ろうとする.芸術の解釈共同体は,幼児が始めて世界を読み取るときと同じ仕方で,コーパスの変化が新たなクワスを示唆するのを待ち構えている.投入されたクワスは,共同体が信じていたプラス文法を別なコードシステムに飛躍させる.
私たちが行ったカンブリアンゲーム・セッション「星座作用」(6)は,クワス的なダイナミズムが共同体内の相互作用として,いかに起こるかを示す試みである.「星座作用」は,町の中のさまざまなオブジェクトを,安定した何か<として見る>のをやめる,という方針を共有した作者たちが,カンブリアンツリーに写真を付加していく.918葉からなる大きな木の,ごく一部を切り出してみる(図3).これらの被写体は,たとえば駅の中にある旅行パンフレット,建設機械,マンホールなどであるが,それらは「餌を待つひな鳥」「餌を運ぶ親鳥」「鳥の横顔」といった鳥をめぐる連想で繋がっている(7)(8)
ある対象が鳥に見えるか建設機械に見えるかは,多義図形の問題であるが,ウィトゲンシュタインは,ある対象を<~として見る>アスペクト(aspect)に関して考察を重ねている(9).アスペクトはある安定したものの見方を提供するが,同時に他の見え方を隠すアスペクト盲(aspect-blind)をももたらす.世界があるアスペクトで見えてくることと,アスペクト盲を伴うことは表裏一体で,盲は必ずしも悪いことではない.しかしある対象は,アスペクトが薄暮のようになる(aspect-dawning)過程を経て,別のアスペクトにスイッチすることがある.
トーマス・クーンのパラダイム論(10)は,共同体のなかでアスペクト変換がいかに起こるかを考察している.『星座作用』における鳥クラスターの発生は,コラボレーションを通して鳥パラダイムが発生するプロセスを視覚化しているということができる.

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図3 「星座作用」の一部

複合パラダイム装置

工学と芸術は,それぞれ固有のアスペクトをもつパラダイムであり,同時に工学盲,芸術盲をともなう.アスペクト盲は,内部から気づくことが難しいが,ふたつのパラダイムの差の中に見えてくる.
ここで,ふたつのパラダイムが相互作用することを考えるにあたって,パラダイムを装置にたとえて考えよう.たとえば携帯電話という装置は,電話という安定したパラダイムから生まれたが,あるときメーラーになり,インターネットに繋がり,カメラがつき,テレビが映り,ついに電話の文字が抜け落ちてケータイと称される.ケータイは,ケータイとは何であるのかを模索するゲームであり,ケータイがケータイでなくなる自己言及まで含む装置である.いわば,飛びながら飛行原理を改造する飛行機のようなものだ.
パラダイム装置M(ケータイ)は,対象O(電話やカメラ)を解釈し書き換えるマシンであると同時に,作動しながらM自身(ケータイとは何かという定義)を解釈し書き換える.(図4)

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図4 パラダイム装置

芸術装置Maと工学装置Meが相互作用するとき,それぞれの装置は,相手の対象Oe,Oaと,相手の装置の定義にも作用を及ぼす.(図5)

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図5 複合パラダイム装置

図中の矢印が何を示唆するのか,読み解いてみよう.
工学が,芸術の成果である音楽や絵画を対象とする矢印1は,作品の生成に工学が関与し支援することである.音楽や絵画の自動生成などは,これに含まれるだろう.
芸術が,工学の成果を対象とする矢印2は,たとえば芸術作品に最新技術が使用されることや,芸術家の行う発見法を工学的な研究・開発・設計に取り入れ,工学の目的達成に寄与することだろう.ある目的で作られたプロダクトに,アーティストが思いもよらないアプリケーションを発見する,ということがこれにあたる.
このように対象を交差させる矢印は,比較的理解しやすい.それに対して相手の装置に作用する矢印は,相手のアスペクト盲をさらけ出し,芸術とはなにか,工学とは何かという定義に作用を及ぼすので,相手のパラダイムチェンジに関与する.
芸術装置そのものに工学が作用する矢印3は,芸術作品ではなく芸術家を生成することである.「顔ポイエーシス」(11)(安斎・中村 2003)は,画家が絵を描くプロセスを記録し,複数の画家の絵の生成過程を交配する試みである.いくつかの種から,無数の作品が生成される.作品と作者の分かちがたい関係は,いわば芸術盲であり,そこにメスが入れられる.目指す領域は,芸術装置への工学的作用であり,いずれ人工芸術家が新しい作風を発見するところまで射程に入るだろう.私は,メディアアートの次に来るべきこの領域を,システムアートと呼んでいる.
最後の,工学装置に芸術が作用する矢印4とはどのようなことをさすのか.以下にその一例を示そう.

詩的工学

工学のアスペクト盲は,目的をめぐる回路の中にあらわれる.工学の目的は外部から与えられていると先に書いたが,外部に漠然とした仮想ユートピアのイメージを与えているのは工学そのものである.工学は,人をより良い暮らしに導くが,なにがより良いのかは工学がそれを指し示している.この自己言及の回路の中で,たとえば「合意形成を支援するシステム」を考えることはできても,「合意を壊すシステム」をなかなか考えられないのが,一種の工学盲である.
建築や衣装は,身体との関係において役にたつことが制約されているわけだが,にもかかわらず(だからこそ)役に立たない機能との厳しいかけひきの中で表現を研ぎ澄ませてきた.役に立たない建築や,役に立たない服は,人間の日常に決定的な異物を挿し込み,強烈な「クワス」を提示する.建築やファッションが行ってきたように,工学が厳しい瀬戸際で芸術と渡り合うことが可能である.はなから実用であることを放棄した芸術作品でもなく,実用を前提とした工学的産物でもなく,役に立ちながら,役に立ち方がわずかに予想外の方にはみ出していく.そのようなエッジを探り当てる領域と方法がありうる.ロマーン・ヤーコブソンは日常の実用的な言語の使用に対し,言語そのものを刷新する使用を詩的言語と名づけた.これに倣って,詩的工学(poetic engineering)という領域を提言したい.
空論にならないための事例として,私自身の道具箱から外に出ていないプロダクトを紹介する.星座ペインターは,星座作用の作家たちが町の中からアスペクトを見つけてきたように,プログラムがランダムに生成した無数の形にあふれる空間である.私はそこをまず散策し,何かに見えたものを抽出し,パーツをコラージュして絵を描く.このソフトウェアのユーザーは,何か目的のものを描くことはできないが,目的を見つけることができる.
星座ペインターは,あらゆる道具に同形の拡張を見出し,星座Xを作るプロトタイプパターンでもある.Xに代入するのは,ワープロでもCADでも良い.これら「星座X」は何の役にたつのかと問われるなら,これは役を見つける道具なのだ,と答えることにしよう.そして,Xのゴールは「工学」である.



参考文献.URL
(1) 安斎利洋・中村理恵子「メディアアート《連画》への招待」(『メディア・プラクティス』水越伸・吉見俊哉編,せりか書房,2003)
(2) フランソワ・ジャコブ 「進化とブリコラージュ」(『可能世界と現実世界─進化論をめぐって』田村俊秀・安田純一訳,みすず書房,1994)
(3) マチスましーん http://cambrian.jp/matissemachine/
(4) S・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(黒崎宏訳,産業図書,1983)
(5) 金子邦彦・池上高志『複雑系の進化的シナリオ─生命の発展様式』(朝倉書店,1998)
(6) 星座作用 http://cambrian.jp/03.htm
(7) 安斎利洋「カンブリアン文書に関するカンブリアン文書」(『現代思想』青土社,2006・2月号)
(8) 安斎利洋「カンブリアンゲーム─未来のテクスト」(『コミュナルなケータイ』水越伸編,岩波書店,2007)
(9) L・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(『ウィトゲンシュタイン全集・八』藤本隆志訳,大修館書店,1978年),第二部xi.
(10) トーマス・クーン『科学革命の構造』1962(中山茂訳,みすず書房,1971)
(11) 顔ポイエーシス http://renga.com/facepoiesis/tabula/


 

電子情報通信学会誌 Vol.90, No.12(20071201) pp. 1086-1090 所収

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006478581

http://cambrian.jp/anzai/files/poetic-engineering02.pdf

Toshihiro ANZAI solo works |