セルオートマトンを彫る 2

彼は、胸に電子頭脳(それは一本の真空管であった)を埋め込んでいた。一方私は、同世代の多くの子供達がそうであったように、彼、すなわち「鉄腕アトム」を内蔵しており、時折この架空の装置は、寝つかれぬ子供の胸の中でカタカタと作動しはじめた。

最終的にアトムは死んでしまった。子供にとって、アトムのような人工知能が可能であるかといった疑問は生ずる余地もない。むしろ疑問だったのは、何故この工学的産物は、死に際して自らの複製を作らなかったのかということだ。それは不可能なのだろうか。よし作り得たとしても、果たしてアトムの意識の流れはすみやかにコピーへと移行するのだろうか。自分は自分であるという意識つまり「この意識は私のものだ」という意識についての意識は、コピーへと受け継がれるのだろうか、というふうにして、アトムは子供の胸の中で、意識に関する概念の実験装置になった。

アトムをコピーするのは、それほど手間のかかることではないかもしれない。セルオートマトンの研究に情熱を燃やすS.ウォルフラムは、恐らくそう言うに違いない。彼はコンピュータ・シミュレ-ションについての解説記事の中で、システムが非常に複雑にふるまうためには、システムの各成分がそれほど複雑になる必要はない、といったことを述べている。

仮にいま、アトムという複雑にふるまう真空管がある。アトムの内部には、アトムの状態を記憶する文字列Stと、それをSt+iに変換する機能Fが備わっている。文字列は”0”と”1”からなり、Fは文字列から一連の5文字を切り出し、1文字を発生する。この単純な1次元のセルオートマトンでさえ、その複雑なふるまいは想像を絶するのである。

想像を絶するというのは、たとえば砲弾の落下地点を計算するように、システムの行方を先まわりして予測することができないということである。 100ステップ後のアトムは、アトムと同等のシステムを100ステップ動かしてみる他に知る術がない。このようにアトムが計算的に不簡約性をもっている場合、「アトムは文字列Xを生み出さない」という命題は証明することができない。ともかく実際にやってみるしかない。実際にそれを無限回くりかえすしか証明する手だてがない問題は、決定不能問題である。

アトムの意識(計算過程)を、以上のように模式的に考えるならアトムのコピーは、それがいかに複雑な過程を畳み込まれたものであれ、文字列と機能を写すだけで再現できるはずだ。また、それはアトムのふるまいほど複雑ではないはずだ。アトムは鉄腕アトムでもいいし、もし可能であるなら我々自身でもいい。しかし、ここで再び私はかつてとらわれた迂路に引き戻されてしまう。それは、アトムがいともたやすく決定不能問題を呈示することにも関係しているようだ。

仮にA(アトムでもいいし、私白身でもいい)が死ぬ前日、Aの全情報がBにコピーされる。翌朝Bは作動しはじめ、Aは死ぬ。この実験は一見馬鹿馬鹿しい程簡単に思える。Bは何事もなかったかのように目覚め、そのままAとして生き続けることになる。Aの方は、Bの存在など関知せぬままシステムが停止し、意識が途絶える。このいずれもが正しいのである。ではいったいAは死んだのか、それとも生きたのか。Aによく似た子供がAでないように、BはAではないのか。あるいは器が何であれBはAであるのか。Aをあなた自身に置きかえるといい。果たしてあなたは死んだのか? あなたは自らの身を食むウロボロスのごとく、循環しはじめるだろう。

ここで我々は、アトムを介して自分自身と向き合っている。「私は私である」あるいは「意識についての意識」という循環する迂路が、この問題を何重にも遠ざけてしまう。この循環を、きわめて明示的に固定して見せたのは、ホフスタッターの「ゲーデル、エッシヤー、バッハ」である。

『われわれの生で最も大きく、そして最も扱いにくい矛盾は、「私が生きていなかった時があったし、私が生きていない時がくるだろう」という知識である。あるひとつのレベルで、あなたが「あなた自身の外に出て」自分を「あたかも他人」のように眺めるときには、これは十分に意味をなす。しかし、別のレベル、たぶんより深いレベルでは、個人的非存在は全然意味をなさない。われわれが知っていることはすべて心の内部に埋めこまれており、それが宇宙からすっかりなくなることは了解しがたい。これは生の基本的な、否定しえない問題である。たぶん、これはゲーデルの定理の最良の隠喩であろう。』

ここで、彼の描き出したループにことさら鋏を入れる必要はないだろう。

もう一度、セルオートマトンに戻ってみよう。アトムの文字列は、成長過程で様々なレベルの循環を見せてくれる。最も低いレベルでは、一個のセル(文字)は近傍のセルと向き合い、循環している。それらは互いに、互いの原因であり結果でもある。原因は次々に波及しながら、より大きな循環へと呑み込まれていく。こうした過程は、パーソナル・コンピュータのディスプレイ上で、容易に観察することができる。コンピュータを持ち出すまでもない。水の流れ、雲、砂丘といった自然の物理的システムを観察してもよい。

それらを美しいと感ずるのは、それを観照する意識の中に、意識を意識する意識という自然と同型の循環があるためである、とは言えないだろうか。

1)S.ウォルフラム「科学と数学のソフトウェア」サイエンス日本版 1984. 11 日経サイエンス社

2)ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル、エッシヤー、バッハ―あるいは不思議の環』野崎昭弘、はやし・はじめ、柳瀬尚紀訳 1985 白揚社 P.687

2変数の2次元セルオートマトンによるテクスチャー。2つのアトラクタをもったセルオートマトンによる棲み分け。

2変数の1次元セルオートマトンを髪の質感に応用している。

 

Toshihiro ANZAI solo works |