触覚連画

発見の喜び

安斎利洋

「連画」をはじめて10年になる。

複製が可能で、通信で転送できるというデジタル画像の特質を生かして、相手から送られてきた画像を自分の作品に作りかえ、再び相手に送り返す。これを繰り返すことによって、「連歌」のようなCGの組み作品が成長する。

友人の中村理恵子さんとの対話という形でスタートした連画は、これまでたくさんの仲間を巻き込んできた。音楽家や書家、歌人といった他分野との他流試合も試みた。そのなかでとりわけ大きな落差を楽しめたのが、全盲の画家、光島貴之さんとの「触覚連画」だ。

光島さんは、指先をたよりに触感の異なる素材を切り張りして作品を作る。私と中村さんは、デジタルカッティングプロッタなどを利用して、自作品を凹凸に置きかえる。光島さんはわれわれの作品を切り取ったり、発泡式の立体コピー用紙に写し取ったりして自作品に組み入れる。こうして、眼と指先という異なる感覚器を通る対話のループができあがる。

光島さんとの対話は、しばしば「何が描かれているかわからない」という単純な障壁の前で立ち止まる。視覚にとって靴下は「く」の字形のアウトラインだが、触覚にとって靴下は細長い袋の全体だ。視覚は飛んでいる鳥を思い浮かべるが、光島さんにとって、鳥は美しい声をもち、手の中でじっとしていないやっかいな生き物だ。

触れない月は、触覚的には音符や文字のような記号的な存在だ。女性の形が作品にあらわれたとき、光島さんは「そのテーマは僕にとって微妙」と言った。見ることと触ることは、ときに決定的に違う意味をもってしまう。こういった相違を発見するたびに、われわれ3人は大喜びする。触覚世界の彼は、見ることの楽しみを、視覚世界のわれわれは、見えないことの楽しみを仮想体験する。

触覚連画が福祉関係のテレビ番組にとりあげられたとき、ある視聴者から、われわれ視覚側の作品が光島さんにとって複雑すぎて思いやりに欠けるのでは、という意見が寄せられた。多くの人は触覚連画に対して、障害者が障害を乗り越えてがんばっている、という感想をいだく。たとえば地下鉄に乗るときに、見えないことは障害に違いないし、健常者の思いやりも必要だ。しかし、表現や心の世界にとって、すべての感覚が備わっていることだけが十全なわけではない。

ブロードバンドへまっしぐらの電子メディアの進歩は、文字よりビジュアル、静止画より動画、そして立体包囲環境へと突き進み、いずれは嗅覚(きゅうかく)や体感まで動員することになるだろう。情報をどんどん加算し、ひとつでも多くのセンスを加えていくことがリアリティーだという考え方には、表現者としては、常に疑問符をつけておきたいと思っている。

(朝日新聞 2001年10月19日夕刊)

Toshihiro ANZAI solo works |

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