建物の裏手から入るとそこはすでに舞台で、観客の目から隠れる位置に身を低く寝そべり、手には脱脂綿を握り締めているのは、自分が葬儀屋であり、なおかつ遺体でもある一人二役を負わされた即興演劇スジナシの演者だからだ。しかし、葬儀屋としての役で立ち上がり、閑散とした桟敷席の客を見ると、彼らは芝居に集中するふうでもない。どうしたらこいつらの心を捉える展開にできるのか。
葬儀屋のスジナシ
(2009年12月11日)
建物の裏手から入るとそこはすでに舞台で、観客の目から隠れる位置に身を低く寝そべり、手には脱脂綿を握り締めているのは、自分が葬儀屋であり、なおかつ遺体でもある一人二役を負わされた即興演劇スジナシの演者だからだ。しかし、葬儀屋としての役で立ち上がり、閑散とした桟敷席の客を見ると、彼らは芝居に集中するふうでもない。どうしたらこいつらの心を捉える展開にできるのか。
鉛筆のように細長いビルの内部に、たくさんの歌い手たちが右往左往している。人と重なるようにして狭い階段を降りながら、長く伸びたひとつの声を発すると、どこからともなく半音上の音が重なってくる。いつのまにか、旋律のない単音が重なっては消えるゆったりとした和声の集団即興が始まり、狭い建物の内部に満ちる。あるとき、全体が完全五度の二音に収束し、それがたっぷり長く続く。勇気をもって、半音上の短六度を加えると、ふたたび音の束は複雑にほつれはじめる。最後にもういちど、自分にシステムの趨勢がかかる瞬間がやってきたので、自分の発していた声を半音あげると、終止が訪れ、全員の声がしだいに遠のいていった。
深い森の中の建物。山小屋の夜のように、たくさんの人がひしめいて眠っている。僕もその中にいる。柳沼麻木さんが巡回してきて、いきなり顔をめがけて、小麦粉のようなものを投げつけてくる。僕は抵抗しようとするが、体が動かない。これで、僕は体のコントロールが自由でないことを了解する。これは、身体障害の体験ワークショップなのだ。
僕らは、このワークショップのために作った装置を実験しようとしているのだ。横たわっている人々は、それぞれの障害に応じて、ひとつずつスイッチをもっている。部屋にはミニマルミュージック風の音が流れている。スイッチを押すと、音楽とぴったり同期して、あらかじめプログラムされたパッセージが流れる。スイッチをずっと押し続けることはできない。一定時間内に押せる頻度が決まっているからだ。
横たわった人々は、ほとんど体を動かすこともなく、静かにスイッチを押すタイミングを計っている。音楽がだんだん重層的になってくる。僕は、心臓がドキドキするのを感じる。